「アバター」のサム・ワーシントン主演!
監督のルイ・レテリエはエドワード・ノートン版の「ハルク」を撮った方ですが、ワタクシ「ハルク」を見た瞬間から「この人は巨大生物(&非生物)好きに違いない!」と睨んでおりました。巨大なモノの出し方に押さえきれない愛を感じますもの。
「トランスフォーマー」のマイケル・ベイも巨大なもの好きですが、この人の場合どうもそこには「生物(ナマモノ)」っぽいのは含まれないんですよね。トランスフォーマー達は生命体には違いないけれどあくまで機械。言ってみればSFの世界の住人達です。
レテリエ監督の方は「生きた」巨大生物&非生物を動かすのがお好きみたいですね♪ トランスフォーマー達とは違う、いかにも生き物っぽい動きを丹念に追っております。
以前だったら生き物っぽい動きを出すためには、本物の生物を捕まえてきてミニチュアセットの中に放して撮影するという手法もありましたが、それだとどう贔屓目に見ても「あ、本物の生物を捕まえてきてミニチュアセットに放して撮ったんだな」としか思えなかったものでした。
というのは、本物の生物、捕まえてきたヤツは演技しませんから。
特に爬虫類とか軟体動物とか節足動物とかは。
生物としての動きが本物であっても、映画のシーンで要求される動きに関してはまるでデタラメだったりするとそれは結局「にせもの」にしかみえないのです。映画の中で巨大生物が出てくるからには、必ずそこに何らかの目的があるはずです。キャラクター達に直接関わらないにしても、そのキャラクター達がその巨大生物を見て何らかのリアクションをするだけ(びっくりして棒立ちになるのも立派なリアクション)の存在感がなければいけません。監督の演出やカメラワークでそれが見せられればしめたものですが、単にタコがミニチュアの上でうじゅるうじゅるしてるだけだったりすると、それは絶対に巨大ダコが町を襲っている様には見えませんから。そこまで構築してきたフィクションが一瞬にして崩れ去る瞬間ですね。
襲っている様に見せる演技ができるタコがいればそれにこしたことはありませんが、タコの方に人間のために演技をするような義理はないわけで、無理は望めません。
そういう意味では自由自在に演技をつけることのできるVFXって最高だと思うのですよ。
ゴジラが着ぐるみだったのは、人間が入ることである程度自由に演技(アクション含む)をつけることができるから。そうすれば恐るべき巨大生物が街をのし歩いて破壊の限りを尽くすシーンをリアルに撮ることができたからです。決して誰も最初から、人間が作り物の怪獣のかぶりものを着用した映画を撮って一儲けしようと思っていたわけではないでしょう。ゴジラの着ぐるみは目的ではなくて結果だったはずです。それは当時の技術の最先端だったでしょう。
今、映画館で新しい作品をみるたびに、その時の最先端の技術を見る事ができます。コンピューターといっても万能ではないし、CGIはひとつひとつ人間がソフトを開発してできることを積み重ねていくものですから、いわゆる大作映画を一つみるたびにそれ以前にはなかった動きというのを発見することができるのですよ。それは本当に些細な事で、例えばそれまで縦の回転しかできなかったものが横の回転もできるようになったとか、そんな程度なんです。
そんな程度でも、それができるソフトを新しく開発するのは大変なことなんですよ。
今の特撮映画はCGだから何でもできるんだろうなんて思うのは間違いです。
どの映画だったか忘れましたが、以前砂漠の砂の動きを砂の表面を平面ととらえ、それが波打つよう表現をつけていたものがありましたが、砂が一粒ずつの粒子として動かず面で動いているのでなんだか妙に映りました。そういった不自然さはいやでも目につくものなのです。
映画を見ていて不自然さを何も感じなかったら、それは本当に自然に撮影されたか――或いは細心の注意を払って最先端のCGIを使ったかのどちらかです。
もしスクリーンにありえないサイズの生物が出てきて、それがごく自然な動きを見せていたら、それが本当にいるものではないと判断するのは単にそれが「ありえない」という知識を持っているからにすぎません。知識はその存在を否定しますが、しかし目から入ってくる情報はそこに不自然さがないとまず「ほんもの」として受け入れるのですよ。判断はそのあとから。
その時「こんなものCGだ」と思って受け入れを拒否すると、その人にとってその映画は全てがくだらなくつまらないものになるでしょう。
でも「これはCGだけど、映画の中では本当なんだ」と受け入れれば、その先にはめくるめく冒険が待っています。
受け入れる入れないは個人の自由ですが、受け入れた方が世界は広がるでしょうね。
どのみち、気づかないところで今やCGは当たり前の技術として映画に使われているのです。火がぼうぼう燃えてるのに煙が少ないシーンなんかは大抵そうです。
その不自然さが受け入れられるのなら、巨大生物ぐらい素直に受け入れてもいいじゃありませんか。だって、巨大なものって、見ると無条件で楽しくなりません? お台場のガンダム見た時に無性に感じた楽しさ。昔の人は奈良の大仏見て同じぐらいわくわくしたに違いありません。
そのわくわくを今は映画館で味わえるのですよ?
しかもただ図体がでかいだけじゃなくて、本物っぽく動き、あまつさえ演技までしちゃうんだから! たまりませんね!!
その喜びはたぶん、「ビッグ・バグズ・パニック」を見るのも「タイタンの戦い」を見るのも変わりないんだと思います。
ええ、それは「童心」。
「童心」さえ持っていれば、「タイタンの戦い」はリメイクでもきっと楽しく見られるでしょう。レイ・ハリーハウゼンへのオマージュを抱きつつね♪
監督のルイ・レテリエはエドワード・ノートン版の「ハルク」を撮った方ですが、ワタクシ「ハルク」を見た瞬間から「この人は巨大生物(&非生物)好きに違いない!」と睨んでおりました。巨大なモノの出し方に押さえきれない愛を感じますもの。
「トランスフォーマー」のマイケル・ベイも巨大なもの好きですが、この人の場合どうもそこには「生物(ナマモノ)」っぽいのは含まれないんですよね。トランスフォーマー達は生命体には違いないけれどあくまで機械。言ってみればSFの世界の住人達です。
レテリエ監督の方は「生きた」巨大生物&非生物を動かすのがお好きみたいですね♪ トランスフォーマー達とは違う、いかにも生き物っぽい動きを丹念に追っております。
以前だったら生き物っぽい動きを出すためには、本物の生物を捕まえてきてミニチュアセットの中に放して撮影するという手法もありましたが、それだとどう贔屓目に見ても「あ、本物の生物を捕まえてきてミニチュアセットに放して撮ったんだな」としか思えなかったものでした。
というのは、本物の生物、捕まえてきたヤツは演技しませんから。
特に爬虫類とか軟体動物とか節足動物とかは。
生物としての動きが本物であっても、映画のシーンで要求される動きに関してはまるでデタラメだったりするとそれは結局「にせもの」にしかみえないのです。映画の中で巨大生物が出てくるからには、必ずそこに何らかの目的があるはずです。キャラクター達に直接関わらないにしても、そのキャラクター達がその巨大生物を見て何らかのリアクションをするだけ(びっくりして棒立ちになるのも立派なリアクション)の存在感がなければいけません。監督の演出やカメラワークでそれが見せられればしめたものですが、単にタコがミニチュアの上でうじゅるうじゅるしてるだけだったりすると、それは絶対に巨大ダコが町を襲っている様には見えませんから。そこまで構築してきたフィクションが一瞬にして崩れ去る瞬間ですね。
襲っている様に見せる演技ができるタコがいればそれにこしたことはありませんが、タコの方に人間のために演技をするような義理はないわけで、無理は望めません。
そういう意味では自由自在に演技をつけることのできるVFXって最高だと思うのですよ。
ゴジラが着ぐるみだったのは、人間が入ることである程度自由に演技(アクション含む)をつけることができるから。そうすれば恐るべき巨大生物が街をのし歩いて破壊の限りを尽くすシーンをリアルに撮ることができたからです。決して誰も最初から、人間が作り物の怪獣のかぶりものを着用した映画を撮って一儲けしようと思っていたわけではないでしょう。ゴジラの着ぐるみは目的ではなくて結果だったはずです。それは当時の技術の最先端だったでしょう。
今、映画館で新しい作品をみるたびに、その時の最先端の技術を見る事ができます。コンピューターといっても万能ではないし、CGIはひとつひとつ人間がソフトを開発してできることを積み重ねていくものですから、いわゆる大作映画を一つみるたびにそれ以前にはなかった動きというのを発見することができるのですよ。それは本当に些細な事で、例えばそれまで縦の回転しかできなかったものが横の回転もできるようになったとか、そんな程度なんです。
そんな程度でも、それができるソフトを新しく開発するのは大変なことなんですよ。
今の特撮映画はCGだから何でもできるんだろうなんて思うのは間違いです。
どの映画だったか忘れましたが、以前砂漠の砂の動きを砂の表面を平面ととらえ、それが波打つよう表現をつけていたものがありましたが、砂が一粒ずつの粒子として動かず面で動いているのでなんだか妙に映りました。そういった不自然さはいやでも目につくものなのです。
映画を見ていて不自然さを何も感じなかったら、それは本当に自然に撮影されたか――或いは細心の注意を払って最先端のCGIを使ったかのどちらかです。
もしスクリーンにありえないサイズの生物が出てきて、それがごく自然な動きを見せていたら、それが本当にいるものではないと判断するのは単にそれが「ありえない」という知識を持っているからにすぎません。知識はその存在を否定しますが、しかし目から入ってくる情報はそこに不自然さがないとまず「ほんもの」として受け入れるのですよ。判断はそのあとから。
その時「こんなものCGだ」と思って受け入れを拒否すると、その人にとってその映画は全てがくだらなくつまらないものになるでしょう。
でも「これはCGだけど、映画の中では本当なんだ」と受け入れれば、その先にはめくるめく冒険が待っています。
受け入れる入れないは個人の自由ですが、受け入れた方が世界は広がるでしょうね。
どのみち、気づかないところで今やCGは当たり前の技術として映画に使われているのです。火がぼうぼう燃えてるのに煙が少ないシーンなんかは大抵そうです。
その不自然さが受け入れられるのなら、巨大生物ぐらい素直に受け入れてもいいじゃありませんか。だって、巨大なものって、見ると無条件で楽しくなりません? お台場のガンダム見た時に無性に感じた楽しさ。昔の人は奈良の大仏見て同じぐらいわくわくしたに違いありません。
そのわくわくを今は映画館で味わえるのですよ?
しかもただ図体がでかいだけじゃなくて、本物っぽく動き、あまつさえ演技までしちゃうんだから! たまりませんね!!
その喜びはたぶん、「ビッグ・バグズ・パニック」を見るのも「タイタンの戦い」を見るのも変わりないんだと思います。
ええ、それは「童心」。
「童心」さえ持っていれば、「タイタンの戦い」はリメイクでもきっと楽しく見られるでしょう。レイ・ハリーハウゼンへのオマージュを抱きつつね♪