「アバター」公式サイト
すぐれた作品はどれもそうですが、これも様々な見方のできる作品だなあと見ながら思っていました。
まず、3Dの技術革新という点。
これはもう、見れば分かるというか見なけりゃ分からないというか、見たところでケチをつけるだけの人も必ず存在するだろうということで、どんな新しい技術も受け入れる心のない人には無用の長物にすぎないという事実をいずれ改めて知る事になるんだろうなと思ったりして。
そしてそういう人達は自分にとって未知の文化を目にした時、彼らの科学技術が自分達のそれより劣っていればそれだけで彼らの文化を過去の遺物ととらえるのだろうな、と。それは「アバター」の中で語られていたことですが。
コミュニケーションは可能か不可能かが問題なのではなく、それ以前にコミュニケーションをしようという姿勢や努力があるかないかが問題なのだとも思いました。
「アバター」がとらえているテーマは一人の人間の生き方に留まらず、人類全体のあり方に関わっています。それだけに一つに焦点を絞って感想を書くというのは難しい。
例えば「オーストラリア」が、オーストラリアに植民した人々が元々そこに暮らしていたアボリジニーの人々に対して行った、当時は正しいと考えられていたけ れども現在の目からすればひどいことを懺悔し贖罪とするための映画という見方もできるように、「アバター」は北米に植民した人々がネイティブアメリカンに 対して行った事への懺悔と贖罪と見ることもできます。
でも、似たような事を行った国は他にもたくさんある。
植民地を持った国は皆そうだし、その昔に違う民族や部族を平定して統一国家を築いた国もそうだと言えるかもしれない。
日本だって、かつて蝦夷地と呼ばれた北海道に住んでいたアイヌの人々に対して行ったことは、「アバター」で人類がナヴィの人々に対して行った事とほとんど変わらないし、恐らくは琉球だって事情は同じなのだと思います。
だから「アバター」で描かれていることは、人類の普遍的な行為の一つだと言っても過言ではないのですよ。人類全てが背負っている罪を告白している映画なのかもしれません。
それは単純に「欲しいものは力尽くで奪う」行為であり、経済すなわち「金が全てを支配する」世界であり、そのためには「自然破壊など省みない」精神性です。
「アバター」ではそれらが見事なまでに象徴的に描かれていました。
その、いわゆる「力による支配」を人類が象徴しているとすれば、対する惑星パンドラの住人であるナヴィの人々が象徴しているのは「自然との調和」です。
彼らは自然神である大地母神を敬い、その信仰はまるで空気を呼吸するのと同様、当たり前の事として受け入れています。
ちなみにこれはフィクションですので、ナヴィにおける「神」は地球のそれとは全く異なる存在として描かれています。それでいて信仰そのものは地球のプリミ ティヴな宗教観に重なっているのですね。一種の自然崇拝ですが、人類と違うのは自然からから自分達にとって特別な利益を得るための生け贄などは捧げないと いう点です。これは彼らの生活基盤が狩猟であって農耕ではないことが大きいかもしれません(設定として正しいと思うのよ)。
ナヴィの人々が人類と違うのは、「欲張る」事を知らない点なんですね。自分達が持ってるもので充足できればもうそれ以上は求めない。
人間、違いますから。
充分持っていて、それで事足りているのに、でももっと欲しくなる。
欲しいものを貰えば貰うほど、もっともっと欲しくなる。
これ、限度がありません。
自分自身で、ここでやめようと決意しなければ留まるところを知らないんですよ。
ちなみに「足るを知れ」というのは昔っから人類の様々な文化でいろいろな形で言い伝えられてきたことですが、人間全体として未だそれを実現できてませんか ら。恐らく将来的にも無理なんでしょう。だからキャメロンは人類とは完全に別な文化を持つ種族として映画の中にナヴィを生み出す必要があったんでしょう ね。
言ってみればナヴィの人々は人間がなれるかもしれなくて、なりたいと思っていて、そのための努力だってしているはずなのに、絶対になれない理想の人類なん です。ほとんど天使とか仙人とかエルフとか、そういった存在。でも既存の概念を使うと手垢のついた神話やファンタジーにまみれて焦点がぼやけ、何がなんだ か分からなくなりますからね、あえてSFとしてブルーの肌の人類ではあり得ない存在として設定した。でも彼らの内面は天使であり、エルフであるのでやはり 外見も最初の設定から外れてどんどん美しくなってしまったのでしょう。彼らの外見は内面の美しさの反映なのです。
3時間弱の映画で見る限り、ナヴィの人々の中にいわゆる悪人はいません。
「悪」というのは自分の欲のために他人のもの(物や命)を奪う行為と言えますから、欲張る心がなければ存在しないものなのかもしれません。
「欲」というのは、他人より(何かにおいて)勝りたい、上になりたいと思う心ともいえますので、その心がないからこそナヴィの人々の生活が完全な調和に満ちたものとなっているとも言えるでしょう。
パンドラでは命を得て生きるということはその星に満ちているエネルギーを活動のために一時期借りることであり、生命が活動が停止して死を迎えれば再び星に返すという形で循環しているので、生命といえども自分のものじゃないという考え方が浸透しているわけです。所有という概念が薄いから「欲張る」という精神活動も起きないのかもしれません。転生輪廻とはまた違った形での生命の永遠性もそこにはある。そういう、ナヴィの人々の考え方のバックボーンまでがしっかり描かれているのが「アバター」の凄いところです。本でいうなら「指輪物語」に匹敵します。
さて、「アバター」では物語は「力による支配」と「自然との調和」の対立として描かれるわけですが、これが見方によっては「男性原理」と「女性原理」の対立とも受け取れるのですね。
映画を見ていると何故か浮かんでくるのが、支配的な父親から恒常的に暴力を受けている優しくて理解のある(そして美しい)母親を守るために子どもが父親に立ち向かっていく構図だったりもします。
それは古い古い神話のモチーフであり、そして現代の家族にも普通におこるできごとであり……従ってそれも人類の抱えた一つの普遍的なテーマといえるのでしょう。
とにかく「アバター」の中には古典的で普遍的なテーマがきちんと整理された上でたくさん盛り込まれているので、見ていて飽きるということがありません。ストーリーのどこかに自分と共通するテーマを誰でもが見つけることができ、そこから感情移入することができるのです。
この物語を「古臭い」とか「どこかで見た」と言う人はたくさんいるでしょう。
それは確かにそうなのです。
なぜなら「アバター」はこれまで語られてきた全ての美しい物語の集大成だから。
人は美しい物語を「こんなことありえない」と言って馬鹿にしたりするものですが、しかし美しい物語の中にこそ普遍性という真実が隠されているのです。
美しさに惑わされるなとよく言われますが、だからといって真実が醜いものだけだとは限らない。
たまには美しさの中に真実を見いだすのもよいではありませんか。
「アバター」にはそれがあるのだから。
すぐれた作品はどれもそうですが、これも様々な見方のできる作品だなあと見ながら思っていました。
まず、3Dの技術革新という点。
これはもう、見れば分かるというか見なけりゃ分からないというか、見たところでケチをつけるだけの人も必ず存在するだろうということで、どんな新しい技術も受け入れる心のない人には無用の長物にすぎないという事実をいずれ改めて知る事になるんだろうなと思ったりして。
そしてそういう人達は自分にとって未知の文化を目にした時、彼らの科学技術が自分達のそれより劣っていればそれだけで彼らの文化を過去の遺物ととらえるのだろうな、と。それは「アバター」の中で語られていたことですが。
コミュニケーションは可能か不可能かが問題なのではなく、それ以前にコミュニケーションをしようという姿勢や努力があるかないかが問題なのだとも思いました。
「アバター」がとらえているテーマは一人の人間の生き方に留まらず、人類全体のあり方に関わっています。それだけに一つに焦点を絞って感想を書くというのは難しい。
例えば「オーストラリア」が、オーストラリアに植民した人々が元々そこに暮らしていたアボリジニーの人々に対して行った、当時は正しいと考えられていたけ れども現在の目からすればひどいことを懺悔し贖罪とするための映画という見方もできるように、「アバター」は北米に植民した人々がネイティブアメリカンに 対して行った事への懺悔と贖罪と見ることもできます。
でも、似たような事を行った国は他にもたくさんある。
植民地を持った国は皆そうだし、その昔に違う民族や部族を平定して統一国家を築いた国もそうだと言えるかもしれない。
日本だって、かつて蝦夷地と呼ばれた北海道に住んでいたアイヌの人々に対して行ったことは、「アバター」で人類がナヴィの人々に対して行った事とほとんど変わらないし、恐らくは琉球だって事情は同じなのだと思います。
だから「アバター」で描かれていることは、人類の普遍的な行為の一つだと言っても過言ではないのですよ。人類全てが背負っている罪を告白している映画なのかもしれません。
それは単純に「欲しいものは力尽くで奪う」行為であり、経済すなわち「金が全てを支配する」世界であり、そのためには「自然破壊など省みない」精神性です。
「アバター」ではそれらが見事なまでに象徴的に描かれていました。
その、いわゆる「力による支配」を人類が象徴しているとすれば、対する惑星パンドラの住人であるナヴィの人々が象徴しているのは「自然との調和」です。
彼らは自然神である大地母神を敬い、その信仰はまるで空気を呼吸するのと同様、当たり前の事として受け入れています。
ちなみにこれはフィクションですので、ナヴィにおける「神」は地球のそれとは全く異なる存在として描かれています。それでいて信仰そのものは地球のプリミ ティヴな宗教観に重なっているのですね。一種の自然崇拝ですが、人類と違うのは自然からから自分達にとって特別な利益を得るための生け贄などは捧げないと いう点です。これは彼らの生活基盤が狩猟であって農耕ではないことが大きいかもしれません(設定として正しいと思うのよ)。
ナヴィの人々が人類と違うのは、「欲張る」事を知らない点なんですね。自分達が持ってるもので充足できればもうそれ以上は求めない。
人間、違いますから。
充分持っていて、それで事足りているのに、でももっと欲しくなる。
欲しいものを貰えば貰うほど、もっともっと欲しくなる。
これ、限度がありません。
自分自身で、ここでやめようと決意しなければ留まるところを知らないんですよ。
ちなみに「足るを知れ」というのは昔っから人類の様々な文化でいろいろな形で言い伝えられてきたことですが、人間全体として未だそれを実現できてませんか ら。恐らく将来的にも無理なんでしょう。だからキャメロンは人類とは完全に別な文化を持つ種族として映画の中にナヴィを生み出す必要があったんでしょう ね。
言ってみればナヴィの人々は人間がなれるかもしれなくて、なりたいと思っていて、そのための努力だってしているはずなのに、絶対になれない理想の人類なん です。ほとんど天使とか仙人とかエルフとか、そういった存在。でも既存の概念を使うと手垢のついた神話やファンタジーにまみれて焦点がぼやけ、何がなんだ か分からなくなりますからね、あえてSFとしてブルーの肌の人類ではあり得ない存在として設定した。でも彼らの内面は天使であり、エルフであるのでやはり 外見も最初の設定から外れてどんどん美しくなってしまったのでしょう。彼らの外見は内面の美しさの反映なのです。
3時間弱の映画で見る限り、ナヴィの人々の中にいわゆる悪人はいません。
「悪」というのは自分の欲のために他人のもの(物や命)を奪う行為と言えますから、欲張る心がなければ存在しないものなのかもしれません。
「欲」というのは、他人より(何かにおいて)勝りたい、上になりたいと思う心ともいえますので、その心がないからこそナヴィの人々の生活が完全な調和に満ちたものとなっているとも言えるでしょう。
パンドラでは命を得て生きるということはその星に満ちているエネルギーを活動のために一時期借りることであり、生命が活動が停止して死を迎えれば再び星に返すという形で循環しているので、生命といえども自分のものじゃないという考え方が浸透しているわけです。所有という概念が薄いから「欲張る」という精神活動も起きないのかもしれません。転生輪廻とはまた違った形での生命の永遠性もそこにはある。そういう、ナヴィの人々の考え方のバックボーンまでがしっかり描かれているのが「アバター」の凄いところです。本でいうなら「指輪物語」に匹敵します。
さて、「アバター」では物語は「力による支配」と「自然との調和」の対立として描かれるわけですが、これが見方によっては「男性原理」と「女性原理」の対立とも受け取れるのですね。
映画を見ていると何故か浮かんでくるのが、支配的な父親から恒常的に暴力を受けている優しくて理解のある(そして美しい)母親を守るために子どもが父親に立ち向かっていく構図だったりもします。
それは古い古い神話のモチーフであり、そして現代の家族にも普通におこるできごとであり……従ってそれも人類の抱えた一つの普遍的なテーマといえるのでしょう。
とにかく「アバター」の中には古典的で普遍的なテーマがきちんと整理された上でたくさん盛り込まれているので、見ていて飽きるということがありません。ストーリーのどこかに自分と共通するテーマを誰でもが見つけることができ、そこから感情移入することができるのです。
この物語を「古臭い」とか「どこかで見た」と言う人はたくさんいるでしょう。
それは確かにそうなのです。
なぜなら「アバター」はこれまで語られてきた全ての美しい物語の集大成だから。
人は美しい物語を「こんなことありえない」と言って馬鹿にしたりするものですが、しかし美しい物語の中にこそ普遍性という真実が隠されているのです。
美しさに惑わされるなとよく言われますが、だからといって真実が醜いものだけだとは限らない。
たまには美しさの中に真実を見いだすのもよいではありませんか。
「アバター」にはそれがあるのだから。