「パラノーマル・アクティビティ」公式サイト
この映画、マジで、真剣に、掛け値なしに、心底、
こわいです。
今までホラーをフィクションとして見ることで味わっていたスリルとサスペンスというのはこの作品にはないんです。ショッキングなシーンが派手な演出でたたみ掛けるように繰り出されるというのもない。血も凍る惨劇とか、戦慄の映像とか、身の毛のよだつ恐怖とか、そういった具体的な言葉で特に語られるようなシーンもほとんどない。
だけど、ただただ、こわいんです。
そのこわさがじわじわと自分の身のうちを浸食していく。
最初は別に何とも思わなかったものが蓄積される内に、次第に恐怖として醸成されていくとでも言いましょうか。
それは「恐怖」という漢字を使った熟語として頭でとらえるよりも、「こわさ」として身体が感じる原始的な感覚に近いです。
子どもが、或いは火を知らなかった頃の人類が、夜や陰のもたらす「闇」或いは「暗さ」といったものに漠然と感じた「恐れ」や「脅え」、それを観客自身が気づかぬ内にそっとそっと身体の奥から呼び起こす仕掛けが「パラノーマル・アクティビティ」という映画の中にひそんでいるのです。
だからこれは今まで見てきた「ホラー」とは違います。いわゆるホラー映画とは一線を画した作品に仕上がってるが故、噂が噂を呼んで公開5週目にして全米一位になるようなヒットになったのでしょう。
この映画は目で見る衝撃よりも音により恐怖感を募らせてゆく部分が多いので、直接的にショックを受ける部分は少ないように見えて、その実心理的にはずっと深いところで恐ろしさを味わわせてくれてるんですよね。
見終わった後、恐くて震えがとまらないといった類の作品ではないんですが、なんとなく生気を失ってしまう心地がします。
震えが止まらない程の恐怖というのは、例えばスティーブン・キングの最高に恐ろしい小説を読んだ時に味わうようなもので、それは小説の中のできごとでありながら読者自身の想像力に強く働きかけて読み手の恐怖心をかきたてることによって成立するものです。読者は小説を読みながら自分自身が想像力で生み出した固有の恐怖と対峙しているわけです。
映画であっても本当に恐ろしいホラー映画というのは、大体そうした仕組みをストーリーや映像の中に持っています。
そしてスティーブン・キングでもジョン・カーペンターでもリドリー・スコットでも彼らの作り出す「作品」はフィクションとしての体裁を備えてますからどこかに作者自身のテーマが見え隠れしてるんですよね。
しかし「パラノーマル・アクティビティ」はそうではない。
この映画は観客の想像力は喚起しない。
想像力は映画の「見えない部分」によって喚起されるものだけれど、この映画は全部見せてしまっているから。
逆に全部見せることで観客にこれは本当だと思わせる。
徐々にではあるが、観客は「パラノーマル・アクティビティ」を見ながらそれを現実に起こっていることと認識するようになり、そう感じることで登場人物達の感情をリアルに体験しているような気分になり、登場人物達の感じている「何だかいやな気分」を自分のものとして再現し、その不安をサスペンスの代わりに募らせていくのですよ。
できごと自体は淡々と進むので途中で心拍が急上昇することもなく、観客にとっては本当に粛々と静々と「いやな気分」が積み重なって行くだけに思えるのだけど、実は要所要所にはさまれる物音が的確に観客の心を脅かしているんですよね。音というのは映像よりも深い部分で心に影響しますから、恐怖に耐える人格の屋台骨を揺るがされているという感じです。
これがね、並の、予算のちゃんとあるホラー映画だったら音楽で表現されるわけですよ。
殺人鬼が出る前にはちゃんと「今から出るぞ~」的なそれっぽいテーマがさりげなく流れたりする。曲やその使い方は監督次第で良くも悪くもなりますが、音楽があればそれに従って観客の感情はソフトに左右されるのです。
でも「パラノーマル・アクティビティ」は低予算ですので。
いわゆる「映画音楽」はありません。
だから映像の中の物音でダイレクトに感情が左右される。
「映画音楽」の聞き慣れたメロディーによるできごとの予測というのも一切できませんから、本当に何が起こるのか分からない。
これが一番こわいです。
人間というのは常に次の瞬間に何が起きるのかを予測して動く生き物ですから、予測のできない事態には本当に弱いんですよ。目の見える人間が視力の全く効かなくなる暗闇を恐れるのは、周りの状況が見えないと何の予測もできなくるからですよね。真っ暗闇を歩く時は、とりあえず進行方向に障害物がないかどうか手を前に出して確かめたりするものでしょ。
「パラノーマル・アクティビティ」は、人間の、その最も弱い部分をついてきます。
これはストーリーが恐いのでも映像が恐いのでもありません。自分自身の想像力と対峙するのとも違う。ただひたすら人間の持つ原始的な「恐れ」の感覚を刺激してくる。
だからこそ、本当に、心の底から、どうしようもなく
こわいのです。
映画を見た後で自分が生きているのを確認するために何か食べたくなります。
それはつまり、映画を見ている間、自分自身の生存本能が脅かされてたという事。この作品はそれ程に
こわいのです。
映画を見る際は、見た後ですぐに暗い所に行くことのないように昼間か、夜でも昼のように明るくて広々として見通しがよくて、ついでに何か食べる物を調達できるような施設もあるような場所を選びましょう。
この映画、マジで、真剣に、掛け値なしに、心底、
こわいです。
今までホラーをフィクションとして見ることで味わっていたスリルとサスペンスというのはこの作品にはないんです。ショッキングなシーンが派手な演出でたたみ掛けるように繰り出されるというのもない。血も凍る惨劇とか、戦慄の映像とか、身の毛のよだつ恐怖とか、そういった具体的な言葉で特に語られるようなシーンもほとんどない。
だけど、ただただ、こわいんです。
そのこわさがじわじわと自分の身のうちを浸食していく。
最初は別に何とも思わなかったものが蓄積される内に、次第に恐怖として醸成されていくとでも言いましょうか。
それは「恐怖」という漢字を使った熟語として頭でとらえるよりも、「こわさ」として身体が感じる原始的な感覚に近いです。
子どもが、或いは火を知らなかった頃の人類が、夜や陰のもたらす「闇」或いは「暗さ」といったものに漠然と感じた「恐れ」や「脅え」、それを観客自身が気づかぬ内にそっとそっと身体の奥から呼び起こす仕掛けが「パラノーマル・アクティビティ」という映画の中にひそんでいるのです。
だからこれは今まで見てきた「ホラー」とは違います。いわゆるホラー映画とは一線を画した作品に仕上がってるが故、噂が噂を呼んで公開5週目にして全米一位になるようなヒットになったのでしょう。
この映画は目で見る衝撃よりも音により恐怖感を募らせてゆく部分が多いので、直接的にショックを受ける部分は少ないように見えて、その実心理的にはずっと深いところで恐ろしさを味わわせてくれてるんですよね。
見終わった後、恐くて震えがとまらないといった類の作品ではないんですが、なんとなく生気を失ってしまう心地がします。
震えが止まらない程の恐怖というのは、例えばスティーブン・キングの最高に恐ろしい小説を読んだ時に味わうようなもので、それは小説の中のできごとでありながら読者自身の想像力に強く働きかけて読み手の恐怖心をかきたてることによって成立するものです。読者は小説を読みながら自分自身が想像力で生み出した固有の恐怖と対峙しているわけです。
映画であっても本当に恐ろしいホラー映画というのは、大体そうした仕組みをストーリーや映像の中に持っています。
そしてスティーブン・キングでもジョン・カーペンターでもリドリー・スコットでも彼らの作り出す「作品」はフィクションとしての体裁を備えてますからどこかに作者自身のテーマが見え隠れしてるんですよね。
しかし「パラノーマル・アクティビティ」はそうではない。
この映画は観客の想像力は喚起しない。
想像力は映画の「見えない部分」によって喚起されるものだけれど、この映画は全部見せてしまっているから。
逆に全部見せることで観客にこれは本当だと思わせる。
徐々にではあるが、観客は「パラノーマル・アクティビティ」を見ながらそれを現実に起こっていることと認識するようになり、そう感じることで登場人物達の感情をリアルに体験しているような気分になり、登場人物達の感じている「何だかいやな気分」を自分のものとして再現し、その不安をサスペンスの代わりに募らせていくのですよ。
できごと自体は淡々と進むので途中で心拍が急上昇することもなく、観客にとっては本当に粛々と静々と「いやな気分」が積み重なって行くだけに思えるのだけど、実は要所要所にはさまれる物音が的確に観客の心を脅かしているんですよね。音というのは映像よりも深い部分で心に影響しますから、恐怖に耐える人格の屋台骨を揺るがされているという感じです。
これがね、並の、予算のちゃんとあるホラー映画だったら音楽で表現されるわけですよ。
殺人鬼が出る前にはちゃんと「今から出るぞ~」的なそれっぽいテーマがさりげなく流れたりする。曲やその使い方は監督次第で良くも悪くもなりますが、音楽があればそれに従って観客の感情はソフトに左右されるのです。
でも「パラノーマル・アクティビティ」は低予算ですので。
いわゆる「映画音楽」はありません。
だから映像の中の物音でダイレクトに感情が左右される。
「映画音楽」の聞き慣れたメロディーによるできごとの予測というのも一切できませんから、本当に何が起こるのか分からない。
これが一番こわいです。
人間というのは常に次の瞬間に何が起きるのかを予測して動く生き物ですから、予測のできない事態には本当に弱いんですよ。目の見える人間が視力の全く効かなくなる暗闇を恐れるのは、周りの状況が見えないと何の予測もできなくるからですよね。真っ暗闇を歩く時は、とりあえず進行方向に障害物がないかどうか手を前に出して確かめたりするものでしょ。
「パラノーマル・アクティビティ」は、人間の、その最も弱い部分をついてきます。
これはストーリーが恐いのでも映像が恐いのでもありません。自分自身の想像力と対峙するのとも違う。ただひたすら人間の持つ原始的な「恐れ」の感覚を刺激してくる。
だからこそ、本当に、心の底から、どうしようもなく
こわいのです。
映画を見た後で自分が生きているのを確認するために何か食べたくなります。
それはつまり、映画を見ている間、自分自身の生存本能が脅かされてたという事。この作品はそれ程に
こわいのです。
映画を見る際は、見た後ですぐに暗い所に行くことのないように昼間か、夜でも昼のように明るくて広々として見通しがよくて、ついでに何か食べる物を調達できるような施設もあるような場所を選びましょう。