この下の方のブログ記事(こちら) に引用した記事を読んでいて、ふと気づいたのがここにあげられた作品は4つとも全部見てるなあということ。

それはビリー・レイという人の手がけた脚本は
ニュースの天才からフライトプラン 」、アメリカを売った男 」に続いて消されたヘッドラインに到るまで私にとってかなり印象的だったということになります。だってこの4作品の主役と悪役と脇役の俳優をそらで言えるんだもんね(書く時には記憶に頼らず他の資料をチェックしますのでご安心ください)。(以下、この4作品に関するネタバレあります。御覧になってない方はご注意ください)

これが見事に監督の名前を覚えていないので、やっぱり印象に残っているのは映像ではなくストーリーだった、すなわち脚本に力があったということでしょう。もちろんどれも役者達のすぐれた演技あっての上ですが。意外とキャストも重なってたり印象が近かったりしてね、脚本で描かれている人物像にくっきりとした描写があることが伺えます。

この4本の中では「フライトプラン」がちょっと別格というか、私の中では格下扱いですが、それでもビリー・レイの書く作品としての一貫性はなんとなくあるような気がします。

作品として傑出しているのは「消されたヘッドライン」。これは監督のケビン・マクドナルドの手腕ですね。ビリー・レイが漠然と抱えているテーマの混沌とした部分を浮き彫りにして分かりやすく観客に見せ、その上で監督自身のテーマと重なる部分を糾弾ともいえる鋭さで強く訴えた作品です。ラッセル・クロウを主演にもってきたワリには興行的にパッとしなかったなんて言われてましたが、しかし一番重要なセリフをここぞという時にラッセルが言っていたのでやはりこれは必要な配役だったのでしょう。セリフ一言の重みが全然違ってきますからね。メタボ気味で調子のいい新聞記者を演じていてもラッセル・クロウが決めのセリフを言う時は、峻厳な顔つきのグラディエイターが剣を抜き放つのと同様な気合いと迫力に満ちているのです。

この「消されたヘッドライン」を見たことで、今までおもしろいとは思いつつも、何だか茫洋としてとらえどころのない作品だと思っていた「ニュースの天才」の骨格がはっきり見えるようになりました。

「ニュースの天才」の主役、スティーブン・グラスはヘイデン・クリステンセンが演じていますが、ヘイデンの次ぐらいに出番が多いのがピーター・サースガードの演じたチャック・レーンという役です。ところが私にはこのレーンがどうしてこんなに大事に扱われるのか全く理解できなかったんですよね。

というのもこのレーン、凡庸というより間抜けな人物で、最初にグラスがついたウソを見抜けなかったばっかりに、グラスによる記事の捏造が大事件に発展する原因となったような男なのですよ。最終的には彼の誠心誠意の働きで口から出任せのような記事を書いていたグラスは放逐されるわけで、言ってみれば正義の軍配はレーンに上がるわけですからこの映画の真の主役はこっちの方だったのかもしれない、なんて映画の終わりの方で観客はうっかり思っちゃうんですけど、でも、最後の最後まで見るとこの作品の主役はグラスでしかありえないんですよ。

だって、結局のところ、観客はグラスのモノローグを聞いていたようなものなんだから。

では、だったら、これがグラスのモノローグなら、何故レーンの存在が、実直かもしれないけれど目の前のウソにも気づかないような凡愚な人物が、あんなに大きく取り上げられなければいけなかったのでしょう?

これが実は長年の疑問だったんですよね。

実話を元にしていても映画はフィクションですから、或いはグラスが心の底ではレーンのような真面目な男になりたいと願っていたとか、ひょっとしたら愛していたとか、そういう伏線でもあればいいんですが、グラスはレーンを慕ってはいましたがそこまでの強い思い入れはなかったんですね。どっちかというと自分の綺麗な顔を利用してレーンを籠絡してましたよ。あのヘイデン・クリステンセンの甘い美貌に目の前で泣かれたら、ノンケの男でもドギマギしてつい言うこときいちゃうだろうなというのは映画ならではの強い説得力ですね。

詐欺師とも言えるようなグラスを主役に据えたためにバランスをとるために愚直なレーンが必要だったのかもしれないですが、レーンだってそこまで清廉潔白な人物ってわけでもないのですよ、これが。いい人にも限界があって、やっぱり最後は保身に走りますからね。そういう意味ではごく普通の人間で、「ニュースの天才」であるグラスの向こうをはるには釣り合いが取れないのです。

もっともこの「ニュースの天才」はその「えっ、なんで?」という部分が作品としての魅力を形成しているんですけどね。なんでみんなそんなヌケヌケとしたグラスのウソに簡単にだまされちゃったの? ってのがおもしろい部分ですから。ホント、ちょっと調べればすぐウソだとばれるようなずさんな捏造だったりするんですよ。

でも、調べない。
一度スクープをものにした敏腕記者の書いた記事なら、もう誰もそれ以上つっこんで調べたりはしない。何か変だな、これって調子よすぎるな、と心の中に疑問が浮かんだとしてもそれを自分の心の中で握りつぶして口に出して問いかけることはしない。そんな事をして、そこにいる全員の非難を浴びるのがいやだから。

こういう人間の集団心理みたいなのが「ニュースの天才」ではよく表現されているんですね。
日本にも実際似たような事件はあって、考古学における「旧石器捏造事件」(WIKI )がそれですね。おかしいなと思いつつも証拠がないから何も言えない、黙っていようと考える心理って洋の東西を問わずあるみたいです。その疑惑の持ち主がある程度増えたところで爆発的に問題解決に至るような道筋も合わせて。

さて、「ニュースの天才」で身内では誰も疑っていなかったグラスのウソを暴くのはスティーブ・ザーンが演じた
アダム・ペネンバーグでした。ヘイデンのグラスもピーター・サースガードのレーンも端正な顔立ちのハンサムですが、それに割って入ったというか彼らの世界を打ち砕いたのがここでは野獣系の顔をしたスティーブ・ザーンなのです。

だからこの作品でヘイデンに対抗する強さを持っていて、二本柱として作品を成立させる役はスティーブ・ザーンの演じた
アダム・ペネンバーグでもよかったはずなんです。まあ、そうなればよくある話になっちゃって作品としての魅力は台無しになったでしょうが。

でも何故かどこまでいっても話の鍵を握っているのはレーンなんですよね。

一体どうして彼の存在がそこまで重要なのか?

それは恐らく、レーンこそが脚本家であるビリー・レイのテーマを体現している人物だからなのです。

彼の作品にはグラスのように「事実」を「情報操作」でねじ曲げ全く違う世界を見せてしまう人、或いは組織が登場します。


目に見えて明らかな事実さえ情報操作でどうにでも変えられると思っている人達
――分かりやすいのがそれこそピーター・サースガードが「フライトプラン」でやったことです。一緒に飛行機に乗った娘がいなくなったのを必死で探しているジョディー・フォスターに、そんな娘は最初からいなかったんだと言いくるめるような、そういう事を平気でやってしまう。恐ろしいのはジョディー本人を説得するのではなくて、彼女の周囲にいる人々にそう信じ込ませてしまうことです。そうすることでジョディーがいくら娘がいなくなったと訴えても周囲の人は耳を貸さなくなる。一旦そういう状況ができあがってしまうと、人はそこで思考を停止してしまいます。どうせ自分には直接関わりのないことだし。

しかしそうなる前に阻止することもできたはずなんですよ。

一旦できあがった思考停止の世界を覆すには野獣並のパワーが必要ですが、世界ができあがる前ならばそれは容易に突き崩すことができるはずなんです。或いは、だったんです。

映画「フライトプラン」ではその「岐路」、すなわち事実に反する情報=ウソで構築された虚構の世界を受け入れるか否かはその機の機長にかかっていました。飛行機という限定された世界の中で一番偉い人はやはり機長ですから、彼がウソを見抜けるか見抜けないか、ウソつきの言葉だけによる虚構の世界を信じるか信じないかによって、その飛行機の中の人達全員(もちろん真実を知っているジョディーは除きます)の動向が決まるという事なのでしょう。

彼の重要性というのはでもその時は分からないんですよね。
ヒロインであるジョディーがウソつきによる虚構の世界をぶち壊し、娘が一緒に乗ったという真実を他の乗客乗員の前で証明したあとで、最後の最後に機長が彼女に謝罪をするのですが、その時に
「あの時あなたの言葉を信じるべきだった」
と言うのです。
そう、その時機長がジョディーの言葉を信じていれば世界は全然違った方向に動いていたはずなんですよ。

ビリー・レイという脚本家にとっては虚構が成立するかしないかの「岐路」にあたるのが必ず誰か他人であるというのが大変重要なのでしょう。だから物語を進める上ではほとんど役に立ってないのに機長は重要人物然として登場するのだと思います。なにしろ機長役の俳優はショーン・ビーンで、必要以上に厳めしくまた重々しかったですからね。一種のミスディレクションを兼ねているにしろ、ストーリー上の役回りの軽さに対して不自然なまでに演技力のある名優を使っているのはやはりその役がそれなりに重要であるという事だったのでしょう。


「ニュースの天才」に戻れば、グラスが捏造記事によって自分が一流の記者であるという虚構を紡ぎ出す前に止めることができたはずだったのがピーター・サースガード演じるレーンだったわけです。ヘイデン・クリステンセン演じるグラスのうるうると美しい瞳にほだされてないで、彼の喋る言葉そのものに真剣に耳を傾けていれば、彼がウソをついていることは見抜けたはずなのです。レーンがそこでグラスのウソを的確に見抜き、その時点で何らかの処置をとっていればグラスの捏造はそれ以上膨れあがることはなかった――少なくとも、その社ではね。

彼が最初に真剣に調査してグラスのウソを見抜けば、そのウソはそこでおしまいになったはずだった。ウソだえでなくグラスの記者としての人生も終わっていたかもしれません。

言ってみればグラスの人生の岐路はレーンにこそあったわけで、それ故に彼の存在が「ニュースの天才」の中で非常に大きい位置を占めているのでしょう。

しかしグラスの作り出す虚構である捏造記事の一群は、彼の上司であるレーンにとっても、また彼らを雇っている社にとっても都合のいいものでした。人間は自分に都合のいい事は、えてして信じたくなるものです。万が一それがウソかもしれないという疑問を感じたとしても、それが万に一つでしかないことならば敢えて無視してしまう。そうやって心の底では疑問が芽生えているのにも関わらず、その心の声を無視して都合のいいウソを信じようとしてしまうのです。

「ニュースの天才」のスティーヴン・グラスは、もしかすると誰かに自分のウソを阻止して欲しかったのかもしれません。彼のウソが通過するか否か、その最初の関門がチャック・レーンだったのでしょう。グラスがウソで構築した世界は美しく甘い蜜の味がするかもしれないけれど、しかし所詮はまやかしの絵空事。夢から覚めれば何も残らず現実は空しく世間は冷たい。それはグラスも知っていたはずで、だからこそ、その蜜の味を味わう前に誰かに止めて欲しかった。

しかし最初の関門となるはずだったレーンは、グラスのウソにいともたやすく騙されてしまった。人工的に作り上げられた故の自然ではありえない美しさには疑念を持って然るべきなのに、虚構の美しさに目が眩み、そしてそれが自分にとっても都合がよかった故に黙ってそれを受け入れてしまった。関門どころか堰を切ったようなものですね。レーンの甘さを見越してグラスはさらに捏造記事を立て続けに流すようになったのですから。

グラスの記事の一つが捏造であることが明らかになって、初めてレーンは自分の過ちに気づきます。
そして「フライトプラン」の機長のように、あの時そうするべきではなかったと激しい後悔にかられるのですが、時すでにもう遅し。彼にできる事はグラスの他の記事の信憑性を一つ一つ洗い直すことぐらいです。まるで罪滅ぼしのように。

そうなんですよ、「フライトプラン」でも「ニュースの天才」でも、本当に悪いのはウソをついた方であるのは明らかなのに、どういうわけか本気で謝罪したり罪滅ぼしをしたりしてるのは「岐路」にあたる人だけなんです。つまり、「罪の意識」はウソつきではなく「岐路」にあたるの人物が持っている――言い変えれば脚本家によって与えられているんです。


これって、ウソつき本人よりも最初にそのウソを見抜けなかった方が悪い、真実を自分で確かめようとせずに自分に都合がいいからってウソで固められた世界を受け入れる方が悪いんだ、という脚本家の心の叫びのようにも聞こえますね。


「フライトプラン」は脚本家が数人いた上に監督は別人ですから、ハリウッド的に正しくウソつきの末路は悲惨なものでした。悪党は成敗されて終わり観客は納得しましたが、まあただそれだけ、みたいな。

「ニュースの天才」は脚本家本人が監督してますから、それとは違う展開をするんですね。

グラスは社会的には制裁を受けているはずなのですが、そういったシーンは出てこないのです。彼は映画の最期の瞬間まで自分の作り上げた甘い夢に浸っています。彼は自分の作り上げた
自分が一流の記者であるという虚構に浸っている時がこの世で一番の幸せだったのでしょう。彼は自分の最初のウソを見逃し、その後次々に重ねたウソも信じて受け入れてくれたレーンに心の底から感謝していたのかもしれません。


この「岐路」にぶつかった時にどっちに進むのが自分の本当の幸せなのか分からない――というよりむしろ本当はウソをついてる時の方が幸せだったとしちゃってるあたり、「ニュースの天才」を監督していても本来は脚本家であるビリー・レイの本心なんでしょうね。社会的にはウソをついて他人に迷惑をかけたなら社会的制裁は受けねばならないということはわきまえつつ、でもウソつき本人よりもそのウソを見抜けない他人の方が本当は罪が重いんじゃないかという、微妙に責任を他人に押しつけている部分が曖昧模糊とした中から垣間見えてくる辺りが、実はこの作品の本当におもしろい部分なんだと思います。人間の、綺麗事だけでは生きられない卑怯で姑息な性質結果的に赤裸々に描いているわけですからね。ビリー・レイ自身はそこまで明確に自覚していなかったと思われますが。自覚じていないからこそ映画の中で「こうあるべき」という見せかけや建前と本心が乖離している部分がおもしろかったりするわけで。



かたや「消されたヘッドライン」では脚本にあったかもしれないその曖昧さは
監督のケビン・マクドナルドの手によって綺麗サッパリそぎ落とされ、峻厳とも言えるテーマに絞られています。名監督といわれる人は自分が何を撮りたいのか完全に把握しているものなのですよ。

この映画ではウソつきにあたるのはやっぱり端正なハンサムであるベン・アフレックです。彼は仕事が議員ですから言ってみれば職業的なウソつきなんですが(偏見です。すいません)、議員としては正直で、巨悪に操られるのを潔しとせず悪を暴く一端を担うために政治生命をかけて真実を公表するようなこともします。

彼のついたウソは全部暴かれるか白状するかして、全てが明らかになったかと思われたあとで、端正なベン・アフレックを野性をむき出しにしたラッセル・クロウが激しく糾弾するのですよ。
「お前は黙っていた。真実に気づいていながら、それを言わなかったんだ」と。

詳細なセリフは忘れましたが、要するにベンの演じた議員は自分の利益のために、自分が黙っていればどうなるか知っていながら、黙ったまま事態が起こるに任せてやりすごしたんです。恐ろしい事が起きると知りながら目の前の真実に目をつぶり、気づかなかった事にした。

「消されたヘッドライン」では、「岐路」はすでにウソつくとかつかないといった虚構の構築の部分をも取り去って、人間が真実に目を向けるか、それとも背けて知らないふりをするかといった深い部分にまで切り込んでいるのです。

他人につくウソは誰かに止めて貰うことができます。
「ニュースの天才」にチャック・レーンがいたように。

でも自分の心に向き合うのは自分しかいない。
「消されたヘッドライン」の議員には自分以外にウソを止めてくれる者はいなかったのです。
止める者がいないから、人工的に手を加えて美しく構築されたウソは自分さえも欺きます。悪いと知っていながら目をつぶったことに、そうするしか道はなかったんだと囁くように。

そういう人の内面に作られた虚構の世界を外から崩すためには、やっぱり野性的なパワーを持ってくるしかないんですね。だからこそのラッセル・クロウですよ。彼は決して飼い慣らすことのできない野生の虎みたいなものですから(自主的になつくことはできます)。ベン・アフレック演じる議員のウソで塗り固めた厚い面の皮に爪を立て心臓を食い破るような役は怒りに燃えるラッセルにしかできません。

ラッセルは自分の無力さへの怒りもこめて議員を糾弾し、かつては親友であった議員の人生を終わりにすることだと知りながら、真実を記事として発表します。それが新聞記者である彼が選んだ生き方で、真実を知ったまま知らないふりをすることは、それが「偽り」である故に、決してやってはいけない事だからです。

ここまでくるともう曖昧な部分はありません。
それが映画監督であるケビン・マクドナルドの力量です。
そしてまた、このラッセルが演じた新聞記者の生き方こそが監督の理想であり、彼が映画を撮る際の変わらぬテーマだからでしょう。

今さらですがこの「消されたヘッドライン」は本当におもしろい作品なのですよ。

どうぞ機会があったら御覧ください。


あ、「アメリカを売った男」には言及する余裕がありませんでしたが、これも「どうして誰も彼のウソに気がつかなかったんだ?」パターンの一つです。やっぱり見終わった後に、おもしろいんだけど結局何を言いたかったんだ? 的なビリー・レイ節。

彼の書いた脚本の映画「24」がどうなるのか、とっても興味ありますね♪