*アメブロメンテがあったので前の記事が中途半端なまま終わってしまいましたので、これは直接の続きになります。文脈が通じるように前回の記事のラスト部分をちょっとだけ引用します。

キャストや監督が胸をはる中、何故か宮 藤官九郎氏だけがうつむいたまま落ち着きなく、まるで退屈した小学生のように足で何もない空間を蹴るような態度で居心地悪そうにしていたの が印象的でした。


下の方で引用した幾つかのニュース記事にも書かれているように、三池監督ってば舞台挨拶の自分の番の時、クライマックスのシーンについて自分は脚本に書かれていたことをその通りに演出しただけだし、役者さんのセリフも全部台本に書かれていたのをちゃんと言っているだけだから、「金返せ」と思うような怒りは全て脚本の宮藤さんにぶつけてくださいと、言ってたんですよね。

聞いてすぐの時は舞台の上だしウケを狙っての冗談半分なんだろうと思っていたんですが、その後映画を見て監督の言葉がかなり本気であったことが判明致しました。

ちょっと、ほんとに、かなり、あのクライマックスにはびっくりしましたから。

「は? それでいいの?!」

というのが正直な感想ですよ、いや、ほんと。

それがどんな驚愕のクライマックスであるのかは5月1日に「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」が公開されてから御自分の目で確かめて頂くとして、2004年に「ゼブラーマン」が公開されてワリとすぐから続編の話があったので、この「ゼブラシティ」の脚本にはなんだかんだで4年間かかっていて、その4年の間にはうっかり忘れていたこともあった……等と宮藤さん御自身が舞台挨拶でヲイヲイヲイみたいな事おっしゃってたんですよね。

で、それを合わせて考えると

「あ、なるほどな」

と。

その4年間の間に宮藤さんは「カムイ外伝」のような傑作をものにしているわけですよ。これは本当に原作に忠実に描ききった力作で、それまでのクドカン作品とは一線を画す物に仕上がっているんですよね(はい、これは私が「カムイ」マツケン両方のファンだから言ってます)。

また、クドカン作品としても渾身の力をこめたような「なくもんか」も発表されているわけで、他にも映画もテレビドラマも舞台もガンガン書いていて、その中で「4年かかった」というのは、これは絶対いいことではないです。当初「ゼブラシティの逆襲」を書くために向けられていたはずの「勢い」というのが完全になくなっているはずですから。

「勢い」がなくなると作品というのは書けないもので……「NINE」の映画監督も要するに作品が作れなくなったのは日常(映画監督の日常は普通の人にとっての非日常)に忙殺されて作品に向かうための「勢い」が持てなくなったからなんですよね。「勢い」よく書くためには、まあ「ドラゴンボール」で言うならパンチを出す前の「タメ」が必要なんです。高く飛ぶ前に一旦かがむ、その時というか、「ヤマト」で言えば波動砲をぶっぱなす前にの「エネルギー充填120%」。それがないと高く到達できないんです。

それでもね、宮藤官九郎氏は、書いた。
プロの鑑ですね。
自分でも何が書きたかったんだか分からなくなりつつも、最後まで仕上げた。

私はクドカン作品は数本しか見てないですが、でも「カムイ」や「なくもんか」の中に見られる彼特有のテーマは第1作の「ゼブラーマン」にはちゃんと打ち出されていたと思います。

宮藤官九郎氏の書きたいテーマというのは煎じ詰めれば
「自分の今の家族は本当の家族ではない。本当の家族はどこか別の遠い所にいる。その本当の家族を見つけた時に自分に本当の幸せが訪れる」
という事になるでしょうか。

バリエーションは様々ですが、大体ドラマ部分は「本当の家族探し」で展開していくわけです。
「ゼブラーマン」であれば自分の家族にほとんど無視されていた主人公が浅野さんとそのお母さんと親しくなって、夢の中ではあっても幸福な家族団欒を得て、それが自信というか一つの切っ掛けになって本当のヒーローへの道を進んでいきますよね。

「カムイ」でも「なくもんか」でも同じ事で、家族を形成するために重要なのは血のつながりではなくもっと別の何かである(たぶん一緒にゴハン食べながら笑いあえることだな)、というのが宮藤氏にとっては重要なテーマとして、作品の中で太い柱になっているんです。

ところが「ゼブラシティの逆襲」ではそれがほとんど出てこない。
全くないわけではないんです。
随所にそれを狙ったと見られるシークエンスはあるし、セリフでも繰り返し「家族」という言葉は語られます。
でも作品を通して見るとそれが全然重要に聞こえてこない。
大事なテーマが形骸化しているから、作品全体が何を訴えたいのか分からないものになっている。
4年間寝かせている間に脚本が風化してしまったような感じなんですね。

しかしここからが「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」の凄いところで。

三池監督、そのスカスカな脚本を力業で一本の映画に仕上げてしまったんですよ。

映画は監督あってのものだというのがよくわかります。

三池監督は別に家族にこだわってないので、も、自分のテーマでぐいぐい映画を引っ張っていって、とにかくそのまま最後まで突っ走っております。

三池監督のテーマは簡単に言うと「愛は暴力」ですから、今回はゼブラクイーンに乗り移ってやりたいこと全部やってましたね。彼女=彼の愛の発露がどんな形か、大変よくわかりました。

この作品、事実上の主人公はゼブラクイーンです。

彼女に精気を吸い取られ、本来の主人公であったゼブラーマンは全然精細がありません。

でも、それでいいんだと思います。ゼブラーマンまでギラギラしてたら、ゼブラクイーンの魅力が影をひそめてしまう。この映画はゼブラクイーンの美しさと激しさに酔いしれればそれでいいのです。

ゼブラクイーンを演じた仲里依紗 さん、頬がまだふっくらしていて肌なんか輝くようで10代の若さがきらめいているのに、それであの役……。よくぞあれだけ演じきったと思います。大女優の誕生シーンに立ち会えたようで、得した気分になれます。彼女を見れただけで満足度100%になるので、きっと誰も「金返せ」とは思わないでしょう。彼女が舞台挨拶でおっしゃった「出すものは全部出し尽くした」という言葉は過言ではありません。


とにかく映画は監督のもの。
名監督が鍛えれば名女優が花開く。
そういう観点で見れば「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」は大変見応えのある作品と言えましょう。


ちなみに2004年公開の「ゼブラーマン」の舞台というか時代設定が実は今年、2010年だったのですよ。
そして2010年公開の「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」の時代は2025年。
すると3作目は2025年公開か?
という話が壇上で冗談半分でされてました。

冗談半分とはいえ監督やキャストの皆さんは続編の話に大乗り気だったんですが、宮藤官九郎氏の方はどうやら心の底ではイヤだったとみえて、それで2025年なら、という15年も先の話にしてしまったようです。

25という数字は、今年が哀川翔さんの芸能生活25周年にあたるのでどうもそれに合わせたようなのですが、続編でいきなり登場人物が15年もトシをとってるというのはかなり難しかったみたいで、脚本にも相当無理があったような気がします。もうこりごり、というのが宮藤さんの本心なのではないでしょうか。どうもそういう忸怩たる気持ちが壇上での落ち着きの無さとして出ていたように見えてなりません。

でも2作目のタイトルが「ゼブラシティの逆襲」なら、3作目はすでに予定されているはず。
タイトルは当然、劇場公開時は「ゼブラーマン ゼブラの復讐」で、DVD発売時に「ゼブラの帰還」に改題されるのですわ。

で、オチは
「全て水に流したぜ」
になるのです、きっと。


ま、仲里依紗さんのゼブラクイーンを見るだけでも眼福ものですので、ゴールデンウィークにはぜひどうぞ。


そういえば舞台挨拶には「仮面ライダーディケイド」の井上正大さんも来ていて(白)、これで平成ライダー生で見たのヒロ君、健君に続き3人目だわ~、とどうでもいい感動を覚えてしまいました。はい、どうでもよかったですね。



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