「のだめカンタービレ 最終楽章 後編」(公式サイト )
画像の下から「のだめ」と「アリス・イン・ワンダーランド」のネタバレあります。
アリスの落っこちたワンダーランドもかなり変だったが、のだめの頭の中に広がっている妄想の世界も負けず劣らずワンダーランドだった。白ウサギも出てくるし。そういう突拍子もない映像がうま~く映画の中で表現されているのがすごいな~とまず感心したりして。キャラの可愛げのなさっぷりもいい勝負だったりして。
それはさておき、アリス対のだめのワンダーランド勝負、果たして勝利はどちらのものだろう?
どちらも最後は世間と世界という大きな海に乗り出していくのだけど、アリスはたった一人で帆船の舳先にたたずみ広い大海原に自分だけの未来を見据えていたのに対し、のだめには自分を優しく見守ってくれる千秋先輩がいる。そのどちらをより幸せと思うかは、見る人の心に委ねられているので一概には決められない。
もしもアリスが愛を知らないのであれば、それはのだめの方が幸せだと言うことも可能だろうが、しかしティム・バートン版のアリスはちゃんと愛を知っている。父親や求婚者に愛されるだけではなく、ちゃんと愛する事も知っているのだ。それは彼女の暮らす現実に異性として存在していないかもしれないが、深い愛の記憶として彼女の心に在り続けるマッドハッターへの思いである。アリス自身が気づいてないにしろ、彼を助けるために自分の身に危険が及ぶのも厭わなかった時点で、そこには愛があった。自分を一途に思ってくれるマッドハッターの存在を受け入れ、その愛に応えたいと思う素直な気持ちの現れがアリスを危険に立ち向かわせたのだ(単に無鉄砲なだけだったかもしれないが)。
のだめに対する千秋の思いもマッドハッターと変わらない。
千秋もマッドハッターも自分の人生が激変するさなかにあって、糸の切れた凧のようにどこに行くのか分からないのだめやアリスを追い続け、振り回され、それでも庇護し、その彼女達が再びどこかへふらふら立ち去ってしまっても自分の思いは断ち切らず、常に愛し続けているのである。
女子にとってそんな異性は滅多にいるもんじゃないので、だから彼女達が暮らしている世界はワンダーランドなのだろう。
千秋やマッドハッターがある意味理想の男性像なのは、彼らがのだめやアリスを束縛しないからだ。空気の抜けた風船のようにどこにすっとんで行くのか分からない彼女達を、だからといって家の中に閉じ込め鍵をかけたりはしないのだ。彼女達が自分の元にいる間は衣食住の面倒までみておいて、だからといってそれをかさにきて自分の言うことをきくようにと強制したりはしない。のだめもアリスも自分達の好きなようにあっちに行ったりこっちに行ったり、挙げ句の果てはいきなりコンサートに出たりジャバウォッキーと戦ったり……。それでも彼らは心配こそするけれど、彼女の行動を止めたりは決してしないのだ。
千秋にもマッドハッターにも自分の愛する人にこうなって欲しいという希望は持っている。持ってはいるが、決してそれを押しつけたりはしない。押しつけはしないが、のだめやアリスが行き先を見失って迷っている時はちゃんとその腕を掴んで正しい方向に向けてやるのだ。そうして彼女達が選んだ道が最終的に自分の希望とどこかで重なっていれば、彼らはそれで満足なのだ。
そして千秋やマッドハッターを満足させる事で、のだめやアリスは幸せになれるのである。
この愛し方、愛され方は、男女が異性として出会った時のものではない。
これは、理想的な父の愛。
娘にとって理想的な、父親からの愛され方なのである。
形は異性であっても心は父親だから、千秋やマッドハッターは見返りを求めずにのだめやアリスを愛する。
娘であるのだめとアリスは父親の愛に応えるのが当然だから千秋とマッドハッターにただひたすら思慕を尽くすのである。娘として当然のわがままも言うのだが。
父親というものは、娘が巣立つのを見送らなければならないものだ。父親が束縛していては娘が幸せになれないからだ。だから理想の父親というものは、娘が子どもで家にいる時に庇護し慈しみ教育するだけではなく、大人になって独立を決めた時に自由に羽ばたかせてやれなくてはいけない。
そういう理想の父親像が「のだめ」からも「アリス」からも浮かび上がってくるのだ。
幼い頃、「大きくなったらパパと結婚する!」なんて言ってた女の子や元女の子達にとって、異性として存在しながらその実、心の中は理想の父親という美青年が存在したら、それこそ理想の恋人だろう。その上仕事もできるときたら言うことなし。それが千秋真一なのである。
マッドハッターはティム・バートン版にゆがんだ、娘への愛をストレートに語るのを照れるあまり妙な方向に走ってしまうお父さんといったところだろうか。「アリス・イン・ワンダーランド」の中ではアリスの最愛の父親はもう死んでしまっているから、こんな姿をとらざるを得ないのかもしれない。「ビートルジュース」の中で死んでしまった夫婦が再び人間界に現れる時に異様な姿になるように、或いはタイトルロールのビートルジュースそのままのように。
のだめもアリスも、千秋やマッドハッターが自分を深く信頼し愛してくれている事に気づき、それを自分自身の自信に変えて立ち直る。子どもにとって保護者の愛が自分を支える源となるように。
自分の本当の姿を愛してくれてる人がいれば、人は強くなれる。
「のだめカンタービレ」も「アリス・イン・ワンダーランド」も、テーマはこの普遍的な一言だ。それは童話を通じ時代を経て何度も何度も繰り返されてきた主題だが、今またここにワンダーランドという舞台を得て新たに甦ったのである。
それがワンダーランドなのは、現実には理想の父親はたぶんとても数が少ないだろうし、理想の父親の心をした眉目麗しく仕事も出来る青年なんてさらに希少種だからだ。「アリス」のマッドハッターも「のだめ」の千秋も、「そんなヤツいねーや」という観点では実はどっこいどっこいだ。観客があらぬ期待を抱き空しい夢を見ずにすむ分、マッドハッターの出てくる「アリス・イン・ワンダーランド」の方がマシかもしれない。
いずれにしろ、「ワンダーランド」は女の子と元女の子の夢をかなえてくれる魔法の世界。どちらが好みかは見た人次第で、勝負はきっと決まらないのだ。