「ニューヨーク、アイラブユー」(公式サイト

*画像の下からネタバレになります。

この下の記事で紹介したシャイア君のエピソードが一番美しかったとするなら、一番可愛かったのはオーランド・ブルームが出ていたエピソード。監督が日本人の岩井俊二という事もあって、とっつきやすいというのはあるにしろ、ストーリーとしても可愛くまとまってました。

Who killed Cock Robin?


まあ、ラストでそれまで声でしかお互いを知らなかった二人が初めて顔を合わせて「初めまして、よろしく」と握手するシーン、それも背の高い青年が背中を丸めるようにして小さい少女に手を差し出すのは、むか~し少女漫画で似たようなコマを見た気がするんだけど。

それと、声だけのやりとりで心の交流が生まれて……という全体のストーリーラインは梶尾真治の初期短編で読んだ事あるな、と(タイトル忘れました)。

それでも何でも、ちゃんと時間の経過と共に二人の思いが高まり一つになる、という恋愛のパターンをきちんと踏んでいるだけ、この作品は見ていて安心ができましたよ。ほとんど声しか出てこないクリスチーナ・リッチも可愛かったし、オーランドはやっぱり素敵だったし(←一番重要な点)。


それなのに、どうして今の今まで感想書かずにほったらかしてたのかというと、全体として見た時の「ニューヨーク、アイラブユー」って、見るに堪えない作品だったから。

どうしてクランクアップしてから公開にこぎ着けるまでにこんなに時間がかかったのか、その理由がよ~く分かりました。とてもそのままじゃ人前に出せない作品だったからでしょう。

とにかく、一つ一つの短編がてんでんばらばらで全くまとまりがないのである。「パリ、ジュテーム」は「パリ」というだけで不思議とテーマが一つにまとまったものが、「ニューヨーク」ではまとまらない。スカーレット・ヨハンソンが監督した作品があまりにも他と雰囲気が違うというので公開された映画からはカットされたというが、上映された作品を見ると何となく納得できる。舞台が「ニューヨーク」という以外に各短編作品を結ぶ共通点というのがまるでないのだ。

或いはそれがニューヨークの本質なのかもしれない。住んでいる人々は皆バラバラで心のつながりもなく、ただ自分の目的を達するためのみに生きている。監督達がその鋭い目でニューヨークの本質をえぐった結果、あぶり出されたニューヨークの本当の姿が実は見るに堪えないものだったというのが真実かもしれないのだ。

様々な所からニューヨーク目指してやってきた人々はパリのようにその街を愛しているから住んでいるわけではなく、便利で都合がいいからそこに居るに過ぎない。彼らがそこに住むのはアメリカン・ドリームの実現のため。すなわち一代で巨万の富を築き名声を得るのが目的に他ならない。彼らはそのために毎日寸暇を惜しんで努力していて、あまりにも忙しいために愛を語る暇さえないのだ。

そう、「パリ、ジュテーム」では人々は互いの目の中に恋いに燃える炎を見いだしてはそれを確認するために様々な手練手管を使っていた。例え最終的な目的がセックスであったとしても、パリにはそこに至る過程をゆっくり楽しむという文化が根付いている。彼らにとって愛を語る事はとても重要なプロセスなのだ。

だがニューヨークでは逆に愛を語るのは野暮らしい。「ニューヨーク、アイラブユー」ではセックスができればそれでOKで、愛はそりゃあるに越したことはないがなくても別に構わないといった程度である。彼らは自分の野心を実現させるため常に何かに追い立てられているかの如く忙しく、愛を感じたとしてもそれを語る時間を惜しみ、行為のみで満足しようとするのである。

そういうせわしない短編ばかり何本も立て続けに見せられたら、こっちもいい加減食傷するというものだ。

もちろんそうじゃない作品もあるのだが、何か見ていてもイヤミなばかりで後味がよくないとか、微笑ましくなり損なっているとか、自分の野心ばかり追い求め他人を蹴落とすことを厭わないニューヨークの荒んだ雰囲気が微妙に醸し出されていて、だんだんゲンナリしてくるのである。

そんな中で異色と言っていいほど可愛かったのが岩井俊二監督作品であり、異質な空間といえる程美しかったのがシェカール・カプール作品だったわけだ。もう一つ、スー・チーが出演しているファティ・アキン作品もなかなか美しかった。この「ニューヨーク、アイラブユー」の中で「美しい」と思ったのは何故か死が題材のものばかりになるが。

「ニューヨーク、アイラブユー」に出てくる人々に共通点を探すとしたら、あれもこれもたくさんのものを欲しがっているという点かもしれない。金も名声も愛もセックスも、およそ人が望むもの全てを手に入れようと躍起になっている――それがこの映画の中に見るニューヨーカーの姿だ。何を隠そう、それは日本でも現実に生きている人々の姿そのままである。だったら、そんなもの、わざわざ金を払って映画館で見るまでもあるまい? 鏡を見ればそこにいるのだから。

「死」というのは人があらゆる欲望から解放された姿とも言える。だからこそ欲望まみれの人々の中では「死」をテーマにした作品が美しく見えるのかもしれない。

それにしても、このバラバラな短編がバラバラなままであればまだしもそれぞれが独立したフィクションに見えたかもしれないのに、それらを無理矢理ひとつの作品につなげようとしたばかりに返って価値を損なってしまったような気がする。一つの短編に現れた登場人物がつなぎとして別な場所にも登場することで、彼らに妙な生活感が出てきてしまったのだ。エピソード一つごとに生まれた登場人物ならばその場限りの定点観測としてドライに観察しておしまいなものを、その彼らを他の場面で見かけると人間つい点と点を結んで線にしてしまいたくなり、線を結ぶとそれが伸びていく先を心配してしまうものなのだ。その先が誰とどこでどのようにからむのか、なんて考え出したらつい彼らに感情移入してしまい、その結果欲望と仕事と結果とに追われるせわしない人生に直面して砂を噛むような思いを味わうはめになるのである。

とはいえそのつなぎの部分がなければ到底一つの作品として世に出せたものではなかったろう。

どっちにしても、見るに堪えない。

残念ながらそれが「ニューヨーク、アイラブユー」という映画なのである。