「ウルフマン」公式サイト
「プレシャス」公式サイト



*画像の下より上記2作品のネタバレがあります。

  未見の方はご注意下さい。


Who killed Cock Robin?



「ウルフマン」と「プレシャス」。

19世紀末のイギリスを舞台に繰り広げられるゴシックホラーと20世紀末のアメリカ、ニューヨークのハーレムで暮らす少女を主人公にした実話を元にした感 動作。
一見、どこにも共通点のないような二つの作品だが、映画を見てみると訴えかけてくるテーマが同じであることに気づかされる。

それは、親から虐待を受けて育った子どもが、自分がその親と同じにはならないと、固い決意を表明している点。


「ウルフマン」では虐待は親から直接殴る蹴るといった形で受けているわけではない。一種のネグレクトではあるかもしれないが、あの時代の貴族にとって家督 を継ぐ「跡取り」は重要であっても自分の血を分けた「子ども」そのものはさして大切ではなかったりしたわけで、寝場所と食事と教育さえ与えていれば愛はな くても特に問題視はされなかったはずだ。


それにも関わらず「ウルフマン」から漂ってくるのは虐待を受けて育った子どもの、自分がその親と同じになるのではないかという濃密な恐怖である。それは暴 力による虐待だけでなく、親のアルコールや薬物による依存症の姿を見て育った子どもが感じる恐怖かもしれない。自分自身の遺伝子の中に親と同じもの――暴 力や酒や麻薬――に対する嗜好が抑えがたく存在するのではないかといった疑心暗鬼である。


「ウルフマン」ではそれがストレートに「リカントロピー」=「狼男化」という形で表現されていた。

ベニチオ・デル・トロが演じたローレンスは狼男に咬まれたせいで自分も狼男に変身してしまうようになる。それは彼にとって苦痛であり苦悩であり、モンス ターとして生きるのと人間として死ぬのとどちらを選ぶべきかとハムレットさながら深い葛藤に苛まれるようになるのだ。

彼が悩むのは彼が生来優しい人間であり、亡き母親を心から愛していて、今はまたその母親によく似た美しい人を愛してしまったから、その愛する人を傷つけた くないという一心からである。


しかし彼にとって恐ろしい事実にはまだ続きがあって、なんと彼の父親こそが長くその地を恐怖に陥れていた狼男の正体であり、彼にリカントロピーの呪いをう つした張本人でもあったのだ。この冷酷な父親は自分が狼男になる事を恥じてもいなければ犯した罪に戦く事もなく、狼男として悪行の限りを尽くすことをむし ろ楽しんでさえいるのだ。


この狼男である正体を隠していた父親像が、アルコールや麻薬や或いは暴力行為そのものに惑溺している自分を棚に上げてしつけと称して子どもを殴る親の像に 結びつくのである。殴られてる子どもの方は殴られる原因が自分にあると思わされているから殴られっぱなしだし、何より殴っているのは自分の愛する対象であ るべき親であるから反抗もできない。反抗したら余計に殴られるだけだというのも勿論あるが。


そうやって育った子どもは親が子どもを殴るのは当たり前だと思い込んでしまうかもしれない。その考えは、強い立場の者は弱い立場の者を殴って教えて当然 だ、という具合に敷延するかもしれない。


そうなった時、それは直接、虐待の連鎖につながる。


実は「プレシャス」にはそれを匂わせる場面が幾つかあった。

プレシャスが自分の子どもに手を上げるようなシーンはなかったが、近所に住む10歳ぐらいの女の子が彼女を慕って遊ぼうと寄ってくるのを、彼女が邪険に突 き飛ばすのだ。今さっきプレシャス自身が彼女の母親から受けた暴力を返すかのように。

「プレシャス」ではフリースクールで読み書きを覚え、自己表現をできるようになったプレシャスが母親に絶縁を宣言し、自分で自分の子どもを立派に育てよう と決意するあたりで話が終わる。彼女は教育を受けた事で母親の自分に対する扱いが間違いであった事を知り、その間違いを自分が繰り返さないですむようにな るはずだ――映画は少なくともそういう含みで終わっている。これは母から娘への暴力の虐待の連鎖を教育によって断ち切ることができるという例である。


しかし「ウルフマン」では事はもう少し複雑だ。

ローレンスの父親、ジョンが抱える「狼男」という宿痾は虐待の対象を一人ローレンスには限らない。狼男になったジョンは手当たり次第に誰でも殺す。社会に 及ぼす害悪の広さと深さはプレシャスの母親の比ではない。

ローレンス自身も一旦狼男となれば理性の歯止めがなくなって自分が何をするのか分からないし、それを止めることも出来ない。彼が狼男になったのは父親のせ いであって彼の責任ではないが、しかし狼男になった自分がやった事には自分で責任をとらなければならないのだ。


ローレンスは父親の所業を目の当たりにし、そして思い出す。父親が自分の妻、すなわちローレンスの美しい母をもその手で殺していたことを。それを目撃した 故にローレンスは残酷な治療を施す施設に長く閉じ込められ遠ざけられていたことを。


自分の不幸の原因は、全て父親にあったのだ。


憎むべきは自分の父親。

しかし、自分自身がその憎むべき父親と同じ存在、狼男であると知った時、息子はどうしたらいいのか?

「ウルフマン」ではローレンスは著名な俳優という設定で、だから教養もあるし自己表現もお手の物だが、しかし「狼男化」はそんな教育で止められるものでは ないとされている。なにしろ狼男に変身した途端、人間だった時の大脳皮質はどっかへいっちゃうらしくて本能のまま振る舞う以外に行動の選択肢はないらしい のだ。


娘は教育を受けることで虐待の連鎖をストップさせることができる(かもしれない)が、息子は教育や教養だけではその衝動を止めることができない。この辺、 男と女の性衝動の違いを物語っているようで興味深かったりする。


では、衝動を止めることのできないローレンスは、自分が父親のようなモンスターになりたくないと思った時どうしたのか。


彼は自らの死を選んだ。

自分が愛した女まで殺すようなモンスターになるよりは、人間として尊厳を保ったまま死ぬ事を選んだのだ。

「ウルフマン」では狼男に変身したローレンスが同じく狼男になった父親と対決し相手を斃すも自らも瀕死の重傷を負い、そのまま愛する人の腕の中でそっと息を引きとってゆく。少なくとも自分の運命は自分で決め、父親を退治することでその支配力からも解放され、相手の目の中に愛を確かめながら死ねたのだから幸せだったと言えるだろう。


しかしそれは映画の話だ。


現実に、父親から酒や麻薬や暴力に対する強い嗜好を持つ遺伝子を受け継いでいる子どもはどうしたらいいのだ? 満月が来たら部屋から一歩も出ないように、自分で自分を律するしかないのか? その己を律する不屈の意志を持たない者はどうすればいいのだ? 死ぬしかないのか?


その深い葛藤が「ウルフマン」全体のトーンとなっている。


映画であれば、フィクションであれば、答えを出すのはたやすい。


自分が心から愛し、愛してくれる人を見つけ、その人のために努力する。


それはプレシャスにとっては自分の生んだ赤ちゃんだった。彼女は自分の赤ちゃんを心から愛し、赤ちゃんも当然お母さんである彼女を愛しているから、それで彼女は満ち足りて努力することができたのだろう(育児は大変だと思うけれど、その辺は映画ではほとんど描写されていない)。


だから必要な愛が男女間のものとは限らないのだ。

誰でもいい、何でもいい、とにかく自分よりも大切だと思える対象が自分の心に生まれた時、それが虐待の連鎖を断ち切る第一歩となるのだろう。

愛は支配ではない。

相手の自由と権利を尊重することだ。
まずそれを知る事から始めなくてはならない。

ローレンスはそれを知っていたから、父親の宿痾であるリカントロピーをその身に宿しても同じ道を歩む事はなかった。

プレシャスはその事を教育によって知ったから、自分の子ども達を虐待せずに済むだろう。

息子と娘、男と女、衝動の激しさは違っても知らなければならない事は同じなのである。