「ハート・ロッカー」公式サイト
*画像の下からネタバレがあります。
ジェレミーが軍服や防弾服を着て歩いている姿は公式サイト上のトレイラ―でも散見できますが、これが本当に格好いいんですよね。彼はその容姿が飛び抜けて美しいというわけではありませんが、軍服や防弾服に身を固めて歩く姿の美しさには息を呑むものがあります。
爆発物処理の時に装着する防弾服(下の画像参照)は不格好きわまりない上とても動きにくそうで、そのスーツを着て美しく歩けるというのはジェレミーの特筆すべき才能かもしれない。
彼がこの防弾服を来て着実な足取りで現場に向かうのが映画のラストシーンになるのだが、ここでの歩き方が美しくなければ映画全体が台無しになってしまうことだろう。
ジェレミー迷いも気負いもない歩き方そのものが、彼の演じたジェームズという人物を全て物語っている。ジェームズの歩き方にはブレがない。一旦目標を定めたら、そこに到る道筋を全てシミュレーションし、その時々で最適と思われる道を選んで突き進んで行く者の歩き方だ。
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私が一番好きなのはこの画像のシーン。
賞金稼ぎ達といきあった砂漠の真ん中で突然狙撃を受けたという状況。
狙撃をテーマにした映画で好きな作品には「スターリングラード」や「シューター」があるけれど、この2作はどちらも狙撃手が主役だったから相手を突然狙い撃ちする方で、映画を見る側としては遠くに見える相手が倒れるのを見て拍手喝采するという形になる。
ところが「ハート・ロッカー」では立場が逆で、こちらが感情移入して見ている味方側の一人がいきなり血を吹きあげ、倒れた時には絶命してしているのである。観客はこれは爆弾処理の映画だと思って見ているので全く予想もしない展開だ。
予想も予測も不可能な状況で唐突に降って湧く死。
映画館で安全な座席に座っている観客にとってもそれは充分な恐怖である。
これは、恐ろしい。
「スターリングラード」や「シューター」で主役達が敵側に与えていた恐怖の正体を初めて知った気分だった。
実際の戦場でその場に居合わせたなら、その死の恐怖は「恐い」なんて言葉で言い表せるものではないだろう。
なにしろ弾は音速を超えて飛んでくるから、当たった人間から血が噴き出し、それが地面に降り注ぐ音を聞いた後で銃声が聞こえてくるような世界なのだ。
音もなくどこからか忍び寄ってくる死の恐怖。
人の気配さえ感じないまま、ただ仲間が一人ずつ撃ち殺されていくのを見ているしかない。次は自分の番かもしれないと脅えながら。
そういう状況下において、ジェームズはとことん冷静なのである。
仲間のサンボーンの方が先に狙撃銃にとりついたと思ったら、自分は即座にスポッターとしての務めを果たし始める。
これは「シューター」を見たから知っているのだが、正確な狙撃にはスポッターからの正確な情報が欠かせないものなのだ。
向こう見ずで命知らずだから爆弾処理ばかりやっているのかと思っていたジェームズの、これは知られざる一面として非常に面白い設定だった。
彼はスポッターとしても優秀で、彼の与える情報に基づいてサンボーンは次々に敵の狙撃に成功していく。狙撃手としてのサンボーンも相当なものだ。
炎天下の砂漠、日差しをさえぎるものさえないところでの狙撃合戦は最後は根比べになる。先に動いた方が負けだ。動きから位置を読まれ、そこに銃弾を撃ち込まれるからだ。ひたすら姿勢を低くして身を隠し、動かず待たねばならない。
この時、自分の喉を潤すためにジュースを要求したジェームズが、緊張し続けていたため動かなくなった指先で苦労してストローまで差し込んだ後で、ちょっと考えてそれをサンボーンの唇にあてて飲ませてやるのである。
自分の喉が渇きで苦しいなら、銃で狙いをつけたまま微動だにできないサンボーンの喉はもっとカラカラに乾いているはずだと彼は思い、そしてそのジュースをサンボーンに譲ったのだ。それをごく当たり前にやってしまえるジェームズは、やはりただ者ではないのである。彼にとってはそれが結果的には一番たくさん味方の命を救えるという判断なのだろうが、そういう時に自分のジュースが飲みたいという切迫した欲望を簡単に無視できる人間はそうはいない。現にサンボーンは与えられたジュースを残さず飲み干すし、物陰に身を潜めて弾をよけているもう一人の仲間のエルドリッジは二人の事などお構いなしに残ったもう一本のジュースを飲んでいたりする。もっともそのおかげで違う位置から狙いをつけていた狙撃手を発見し撃ち殺すができて仲間達の命を救えたのだから、誰も文句を言ったりはしないだろうが。
日が落ち視認ができなくなり狙撃が不可能になるのを待って、ジェームズは引き上げようと伝える。彼はどこまでも冷静に状況判断ができる人なのである。論理に従ってはいるが冷徹ではなく、臨機応変に。
そう、このエピソードはジェームズが冷静ではあるが冷酷ではないことを雄弁に物語っているのだ。彼は任務が要求する男に自らを作り上げたが、しかし彼本来の性質には優しさが備わっている。他人を思いやれる心がなければ、そもそもジュースを飲む前にサンボーンの事など考えるわけがない。思いやりというのは「自分はこうだが相手はどうだろう?」と考える想像力が源泉だ。彼はとても想像力が豊かな人間で、そしてそれ故、周囲の兵士達からはどこか浮いた存在となってしまうのである。
「想像」という言葉は「空想」や「妄想」のようにどこか現実離れした世界を思い描くことを連想させるから「類推」や「洞察」といった言葉と置き換えてもいいが、要するに今見ている現実からどのような未来が派生するか、或いは今見ている世界がこうなるためにはどんな事実の積み重ねがあったのかと推論する能力の事だ。
それは現実に立脚している限り大変役に立つが、ひとたび地から足が離れ「空想」の部類に突入すると暴走する事がある。確認や検証を怠ってはいけないのは、そのためである。
「ハート・ロッカー」ではジェームズのその側面をえぐるように描き出していた。彼とベッカムという名の少年の交流がそのエピソードとなる。
基地にDVDを売りに来ている12歳の少年、ベッカムを何故かジェームズは可愛がって一緒にサッカーしたりしている。理由は、現地の少年と仲良くなれば米軍がその地で浴びている憎しみの重さから少しは解放されると思ったのか、或いは単にサッカーやって一緒に遊びたかったのか、その辺は分からない。たぶん、物怖じしないで米兵である自分に話しかけてくる少年を可愛いと思ったのだろう。
その少年が人間爆弾にされる手術の途中で死んだと思い、ジェームズはキレてしまう。
自分が可愛がったばかりにベッカムが標的にされたと、恐らく彼は考えたのだ。
米兵に取り入った復讐か、或いは自分と親しいベッカムならば基地の内部にまで潜入して爆弾テロをさせられると考えた誰かが、少年の腹に爆弾を埋め込んだ、と。
それともベッカムは最初から爆弾テロをするつもりで自分に取り入ったのか、とも心の片隅で考えたに違いない。幾つかの事実を元にした様々な仮説が彼の心の中で瞬時に立ち上がってきたのだろう。
ジェームズはそれを確かめなければならない。
真実を知らなければ、彼は今までのように冷静に情報を処理できない。
解答の得られない命題が頭に残っている限り、彼の脳はそこに処理能力をあらかた持っていかれるために普段の仕事――爆発物処理――に支障を来してしまうのである。
もちろんベッカムを人間爆弾にしようとした奴らをつきとめ、償わせてやりたいとも思っていただろう。もしくはベッカムの肉親に会ってお悔やみを伝えたいという気持ちもあったかもしれない。自分と関わったためにベッカムが奇禍にあったのなら、それに対する罪の意識も勿論あるはずだ。
だがジェームズの表情や態度は復讐に取り憑かれた人間のそれではなく、真実を、例え自分が傷つく結果となってもどうしても知らねばならないと思い詰めているもののように私には思えた。仮説は確かめなければ不安としてそのまま残り、不安は人を苦しめる。ジェームズが自分の不安をを取り除くためには、どうしても真実を確かめずにはいられないのだ。
いずれにしてもベッカムのせいでジェームズの脳はオーバーヒートして正確な判断ができなくなってしまう。
その結果、エルドリッジが撃たれて脚に重傷を負う羽目になり、自分の行動が原因で引き起こされた事態の悲惨さにジェームズ自身の心も深く傷ついてしまうのだ。
この時、ヘルメットも靴ももちろん軍服も着たままで頭からシャワーを浴びるジェームズの足元にたまっている水が赤いのだ。服や手についていたエルドリッジの血が流れ落ちて水を染めているのである。それはまるでジェームズ自身の心が傷ついて流した血であるかのようだ。
翌朝、ジェームズはショッキングな光景を目にする。
ベッカムがサッカーボールを持って「遊ぼう」とやってきたのだ。
人間爆弾にされて死んだ少年はベッカムではなかった――この時のジェームズの動揺は、どんな爆弾に遭遇した時よりも目に見えて激しかった。すぐに表面は立ち直っていたけれど。
死んだ少年は顔が血まみれで、年格好がベッカムに似ているというだけで、ジェームズは何故かベッカムだと思い込んでいたが実はサンボーンは別人だと見抜いていた。ただ、確証も確認する術もなかったのと、ジェームズに逆らってもしょうがないと思っていたため、サンボーンはそれを彼に伝えなかったのである。エルドリッジもサンボーンからそれを聞きながら黙っていた。それはジェームズのワンマンぶりが招いた結果だと言える。
ジェームズが死んだ少年をベッカムだと思い込んだのは、自分と遊ぶ現地の少年にはそんな危険があるだろうと心配していたからに他ならない。心配というのはすなわち悪い事態が起こるかもしれないと様々な想像をめぐらす事である。彼は自分の悪い予想が当たってしまったと思い込み(たぶん、普段からよく当たっているからだろう)、それがその後の判断を誤らせた。
彼はそもそもベッカムと仲良くなるべきではなかったのだ――どんなに少年が可愛く、自分の息子を思い出させるよすがだとしても。
だから「遊ぼう!」と駆け寄ってくるベッカムをジェームズは完璧に無視し、その後は一瞥もくれずに車に乗り込んで走り去る。何が何だか分からず、がっかりしているベッカムを残して。
自分と遊ばなければこの後ベッカムの身に危険が及ぶことはない。
自分がベッカムを気にかけなければ、今後同じミスをすることはない。
この時のジェームズは冷徹そのものだった。
彼は自分の中にある熱い心を自ら封印したのである。
ジェームズが「こんな事になったのはお前のせいだ!」とベッカムに八つ当たりをすることはない。内心にどんな嵐が吹き荒れているにしろ、彼は感情を怒りにまかせて他人にぶつけたりはしない。結局は自分の想像が招いた種である事を承知しきっているから、彼は誰も攻めたりはしないのだ。
それに引き替えアメリカの病院に運ばれることになったエルドリッジは見送りに来たジェームズにここを先途と悪口雑言を浴びせていた。それはごく普通の人が取る態度の見本みたいなもので、ジェームズは言い返さず黙ってそれを受け入れていた。エルドリッジの言ってることは本当のことだと、ジェームズにはよく分かっていたから。
ジェームズの心の中には言葉にして外に出すことができなかった思いが一体どれだけたまっているのだろう? この映画のタイトルである「Hurt Locker」とは、ジェームズの傷ついた心の事を言っているのではないだろうか。どんなに傷だらけになっても決して開かれないままのロッカー。その中身がどうなっているのかは、持ち主にしか分からない。
傷つき、罪の意識を背負ったジェームズにできることはただ爆弾の処理だけ。
だから彼は自殺行為にも等しい爆発物処理にも率先して立ち向かい、ギリギリまで人の命を助けようとする。
それが彼にとっての贖罪だから、ジェームズはやめることができない。
それは彼にしかできない事で、だからこそ、彼は死を選ばず生の側に何とか踏みとどまっていられる。彼の心の片隅で「もう面倒だ。死んだ方が楽になる」、とささやき続ける声に耳を貸さずにすんでいられるのだ。
ジェームズは生きるために爆発物の処理をし続ける。
一切の妥協も迷いもなく、彼は生きるために確かな足取りで前に進み続けるのだ。
たとえその行く先が死地であろうとも。
*画像の下からネタバレがあります。
ジェレミーが軍服や防弾服を着て歩いている姿は公式サイト上のトレイラ―でも散見できますが、これが本当に格好いいんですよね。彼はその容姿が飛び抜けて美しいというわけではありませんが、軍服や防弾服に身を固めて歩く姿の美しさには息を呑むものがあります。
爆発物処理の時に装着する防弾服(下の画像参照)は不格好きわまりない上とても動きにくそうで、そのスーツを着て美しく歩けるというのはジェレミーの特筆すべき才能かもしれない。
彼がこの防弾服を来て着実な足取りで現場に向かうのが映画のラストシーンになるのだが、ここでの歩き方が美しくなければ映画全体が台無しになってしまうことだろう。
ジェレミー迷いも気負いもない歩き方そのものが、彼の演じたジェームズという人物を全て物語っている。ジェームズの歩き方にはブレがない。一旦目標を定めたら、そこに到る道筋を全てシミュレーションし、その時々で最適と思われる道を選んで突き進んで行く者の歩き方だ。
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私が一番好きなのはこの画像のシーン。
賞金稼ぎ達といきあった砂漠の真ん中で突然狙撃を受けたという状況。
狙撃をテーマにした映画で好きな作品には「スターリングラード」や「シューター」があるけれど、この2作はどちらも狙撃手が主役だったから相手を突然狙い撃ちする方で、映画を見る側としては遠くに見える相手が倒れるのを見て拍手喝采するという形になる。
ところが「ハート・ロッカー」では立場が逆で、こちらが感情移入して見ている味方側の一人がいきなり血を吹きあげ、倒れた時には絶命してしているのである。観客はこれは爆弾処理の映画だと思って見ているので全く予想もしない展開だ。
予想も予測も不可能な状況で唐突に降って湧く死。
映画館で安全な座席に座っている観客にとってもそれは充分な恐怖である。
これは、恐ろしい。
「スターリングラード」や「シューター」で主役達が敵側に与えていた恐怖の正体を初めて知った気分だった。
実際の戦場でその場に居合わせたなら、その死の恐怖は「恐い」なんて言葉で言い表せるものではないだろう。
なにしろ弾は音速を超えて飛んでくるから、当たった人間から血が噴き出し、それが地面に降り注ぐ音を聞いた後で銃声が聞こえてくるような世界なのだ。
音もなくどこからか忍び寄ってくる死の恐怖。
人の気配さえ感じないまま、ただ仲間が一人ずつ撃ち殺されていくのを見ているしかない。次は自分の番かもしれないと脅えながら。
そういう状況下において、ジェームズはとことん冷静なのである。
仲間のサンボーンの方が先に狙撃銃にとりついたと思ったら、自分は即座にスポッターとしての務めを果たし始める。
これは「シューター」を見たから知っているのだが、正確な狙撃にはスポッターからの正確な情報が欠かせないものなのだ。
向こう見ずで命知らずだから爆弾処理ばかりやっているのかと思っていたジェームズの、これは知られざる一面として非常に面白い設定だった。
彼はスポッターとしても優秀で、彼の与える情報に基づいてサンボーンは次々に敵の狙撃に成功していく。狙撃手としてのサンボーンも相当なものだ。
炎天下の砂漠、日差しをさえぎるものさえないところでの狙撃合戦は最後は根比べになる。先に動いた方が負けだ。動きから位置を読まれ、そこに銃弾を撃ち込まれるからだ。ひたすら姿勢を低くして身を隠し、動かず待たねばならない。
この時、自分の喉を潤すためにジュースを要求したジェームズが、緊張し続けていたため動かなくなった指先で苦労してストローまで差し込んだ後で、ちょっと考えてそれをサンボーンの唇にあてて飲ませてやるのである。
自分の喉が渇きで苦しいなら、銃で狙いをつけたまま微動だにできないサンボーンの喉はもっとカラカラに乾いているはずだと彼は思い、そしてそのジュースをサンボーンに譲ったのだ。それをごく当たり前にやってしまえるジェームズは、やはりただ者ではないのである。彼にとってはそれが結果的には一番たくさん味方の命を救えるという判断なのだろうが、そういう時に自分のジュースが飲みたいという切迫した欲望を簡単に無視できる人間はそうはいない。現にサンボーンは与えられたジュースを残さず飲み干すし、物陰に身を潜めて弾をよけているもう一人の仲間のエルドリッジは二人の事などお構いなしに残ったもう一本のジュースを飲んでいたりする。もっともそのおかげで違う位置から狙いをつけていた狙撃手を発見し撃ち殺すができて仲間達の命を救えたのだから、誰も文句を言ったりはしないだろうが。
日が落ち視認ができなくなり狙撃が不可能になるのを待って、ジェームズは引き上げようと伝える。彼はどこまでも冷静に状況判断ができる人なのである。論理に従ってはいるが冷徹ではなく、臨機応変に。
そう、このエピソードはジェームズが冷静ではあるが冷酷ではないことを雄弁に物語っているのだ。彼は任務が要求する男に自らを作り上げたが、しかし彼本来の性質には優しさが備わっている。他人を思いやれる心がなければ、そもそもジュースを飲む前にサンボーンの事など考えるわけがない。思いやりというのは「自分はこうだが相手はどうだろう?」と考える想像力が源泉だ。彼はとても想像力が豊かな人間で、そしてそれ故、周囲の兵士達からはどこか浮いた存在となってしまうのである。
「想像」という言葉は「空想」や「妄想」のようにどこか現実離れした世界を思い描くことを連想させるから「類推」や「洞察」といった言葉と置き換えてもいいが、要するに今見ている現実からどのような未来が派生するか、或いは今見ている世界がこうなるためにはどんな事実の積み重ねがあったのかと推論する能力の事だ。
それは現実に立脚している限り大変役に立つが、ひとたび地から足が離れ「空想」の部類に突入すると暴走する事がある。確認や検証を怠ってはいけないのは、そのためである。
「ハート・ロッカー」ではジェームズのその側面をえぐるように描き出していた。彼とベッカムという名の少年の交流がそのエピソードとなる。
基地にDVDを売りに来ている12歳の少年、ベッカムを何故かジェームズは可愛がって一緒にサッカーしたりしている。理由は、現地の少年と仲良くなれば米軍がその地で浴びている憎しみの重さから少しは解放されると思ったのか、或いは単にサッカーやって一緒に遊びたかったのか、その辺は分からない。たぶん、物怖じしないで米兵である自分に話しかけてくる少年を可愛いと思ったのだろう。
その少年が人間爆弾にされる手術の途中で死んだと思い、ジェームズはキレてしまう。
自分が可愛がったばかりにベッカムが標的にされたと、恐らく彼は考えたのだ。
米兵に取り入った復讐か、或いは自分と親しいベッカムならば基地の内部にまで潜入して爆弾テロをさせられると考えた誰かが、少年の腹に爆弾を埋め込んだ、と。
それともベッカムは最初から爆弾テロをするつもりで自分に取り入ったのか、とも心の片隅で考えたに違いない。幾つかの事実を元にした様々な仮説が彼の心の中で瞬時に立ち上がってきたのだろう。
ジェームズはそれを確かめなければならない。
真実を知らなければ、彼は今までのように冷静に情報を処理できない。
解答の得られない命題が頭に残っている限り、彼の脳はそこに処理能力をあらかた持っていかれるために普段の仕事――爆発物処理――に支障を来してしまうのである。
もちろんベッカムを人間爆弾にしようとした奴らをつきとめ、償わせてやりたいとも思っていただろう。もしくはベッカムの肉親に会ってお悔やみを伝えたいという気持ちもあったかもしれない。自分と関わったためにベッカムが奇禍にあったのなら、それに対する罪の意識も勿論あるはずだ。
だがジェームズの表情や態度は復讐に取り憑かれた人間のそれではなく、真実を、例え自分が傷つく結果となってもどうしても知らねばならないと思い詰めているもののように私には思えた。仮説は確かめなければ不安としてそのまま残り、不安は人を苦しめる。ジェームズが自分の不安をを取り除くためには、どうしても真実を確かめずにはいられないのだ。
いずれにしてもベッカムのせいでジェームズの脳はオーバーヒートして正確な判断ができなくなってしまう。
その結果、エルドリッジが撃たれて脚に重傷を負う羽目になり、自分の行動が原因で引き起こされた事態の悲惨さにジェームズ自身の心も深く傷ついてしまうのだ。
この時、ヘルメットも靴ももちろん軍服も着たままで頭からシャワーを浴びるジェームズの足元にたまっている水が赤いのだ。服や手についていたエルドリッジの血が流れ落ちて水を染めているのである。それはまるでジェームズ自身の心が傷ついて流した血であるかのようだ。
翌朝、ジェームズはショッキングな光景を目にする。
ベッカムがサッカーボールを持って「遊ぼう」とやってきたのだ。
人間爆弾にされて死んだ少年はベッカムではなかった――この時のジェームズの動揺は、どんな爆弾に遭遇した時よりも目に見えて激しかった。すぐに表面は立ち直っていたけれど。
死んだ少年は顔が血まみれで、年格好がベッカムに似ているというだけで、ジェームズは何故かベッカムだと思い込んでいたが実はサンボーンは別人だと見抜いていた。ただ、確証も確認する術もなかったのと、ジェームズに逆らってもしょうがないと思っていたため、サンボーンはそれを彼に伝えなかったのである。エルドリッジもサンボーンからそれを聞きながら黙っていた。それはジェームズのワンマンぶりが招いた結果だと言える。
ジェームズが死んだ少年をベッカムだと思い込んだのは、自分と遊ぶ現地の少年にはそんな危険があるだろうと心配していたからに他ならない。心配というのはすなわち悪い事態が起こるかもしれないと様々な想像をめぐらす事である。彼は自分の悪い予想が当たってしまったと思い込み(たぶん、普段からよく当たっているからだろう)、それがその後の判断を誤らせた。
彼はそもそもベッカムと仲良くなるべきではなかったのだ――どんなに少年が可愛く、自分の息子を思い出させるよすがだとしても。
だから「遊ぼう!」と駆け寄ってくるベッカムをジェームズは完璧に無視し、その後は一瞥もくれずに車に乗り込んで走り去る。何が何だか分からず、がっかりしているベッカムを残して。
自分と遊ばなければこの後ベッカムの身に危険が及ぶことはない。
自分がベッカムを気にかけなければ、今後同じミスをすることはない。
この時のジェームズは冷徹そのものだった。
彼は自分の中にある熱い心を自ら封印したのである。
ジェームズが「こんな事になったのはお前のせいだ!」とベッカムに八つ当たりをすることはない。内心にどんな嵐が吹き荒れているにしろ、彼は感情を怒りにまかせて他人にぶつけたりはしない。結局は自分の想像が招いた種である事を承知しきっているから、彼は誰も攻めたりはしないのだ。
それに引き替えアメリカの病院に運ばれることになったエルドリッジは見送りに来たジェームズにここを先途と悪口雑言を浴びせていた。それはごく普通の人が取る態度の見本みたいなもので、ジェームズは言い返さず黙ってそれを受け入れていた。エルドリッジの言ってることは本当のことだと、ジェームズにはよく分かっていたから。
ジェームズの心の中には言葉にして外に出すことができなかった思いが一体どれだけたまっているのだろう? この映画のタイトルである「Hurt Locker」とは、ジェームズの傷ついた心の事を言っているのではないだろうか。どんなに傷だらけになっても決して開かれないままのロッカー。その中身がどうなっているのかは、持ち主にしか分からない。
傷つき、罪の意識を背負ったジェームズにできることはただ爆弾の処理だけ。
だから彼は自殺行為にも等しい爆発物処理にも率先して立ち向かい、ギリギリまで人の命を助けようとする。
それが彼にとっての贖罪だから、ジェームズはやめることができない。
それは彼にしかできない事で、だからこそ、彼は死を選ばず生の側に何とか踏みとどまっていられる。彼の心の片隅で「もう面倒だ。死んだ方が楽になる」、とささやき続ける声に耳を貸さずにすんでいられるのだ。
ジェームズは生きるために爆発物の処理をし続ける。
一切の妥協も迷いもなく、彼は生きるために確かな足取りで前に進み続けるのだ。
たとえその行く先が死地であろうとも。