「Body Worlds」 数年前に日本でやってた「人体の不思議展」(公式サイト )とは似て非なるものであることに画像見に行って気づきました。

「Body Worlds」 の画像はこちら
苦手な方もいらっしゃるでしょうからここでは貼り付けません。作り物じゃないですしね。
基本、人体模型図です。あの、皮膚をかぶってない側ね。内臓とか取り出せるヤツ。
ここで「あ、アタシ(ボク)、もう、ダメ……」と思った方はうっかりクリックなさらぬように。見てしまったあとで夢でうなされても責任持ちませんから。

「『CSI』見慣れてるから平気よ~」という方もちょっとタンマ。
「Body Worlds」で展示されているものはショーアップされた死体です。誰かに殺されて無念を顔にはり付けたままモルグに横たわって検視を待っている血なまぐさい死体のフリした人形ではありません。死体のくせに生きて躍動している瞬間を再現させられて、その上で皮膚をはぎとられたもの(順序は逆だと思いますがね)、それが「Body Worlds」で展示されているものです。

そこに死者の尊厳はあるのか?

たぶん、ないです。

皮膚をはぎとられた死体からは個人が失われていますから。そこには「死者」はもう存在せず、「死体」という物体だけがあるのです。

だから死者の魂がその亡骸と共にあると漠然と感じているような方は「Body Worlds」は見ない方がよろしい。見るとたぶん立腹するでしょう。死んだ後でまでこんな恥ずかしい姿にさせられて、亡骸の主(すでに霊魂)はどんな気持ちでいるだろう、とね。

死体をただの「物」と思うか、それとも「かつて魂をおさめていた神聖な容器」とみなすか、その見方の違いがストレートに「Body Worlds」に対する見方の違いになるのだと思います。

ここで誤解しないで頂きたいのですが、「Body Worlds」であれ「人体の不思議展」であれ死体が「物」だからといって粗末に扱っているわけでは決してありません。かつて「人」だったことへの最大限の敬意を払っていることを見る側に訴えています。

問題は「見る側」がいるということ。

要するに、何をどう言葉で言いつくろおうとも、それは「見せ物」だということです。

物言わぬ死者を一方的に主催者の意図に沿うような形で見せ物にしている。死体を「物」と思わず、かつて生きていた「人」だと思う人にとっては恐らくここが問題なのですね。「見せ物」という興行にはどことなく胡散臭さがつきまとうものですし。

しかし魂を持たぬ死体はすでに「物」であると考えられる人にとっては、この加工された死体は単に作品を作り上げるための「素材」なのですよ。生け花の展示会とかマダム・タッソーの蝋人形館で見るものと基本は同じです。無論、感覚的な忌避感や違和感を論理によってにそこまで割り切ることで押さえ込むことができれば、ですけれど。

先入観をおさえ、モラルと切り離し、感覚的な嫌悪感を抑えてここまでつきあって下さった方は、たぶんもうクリックしても大丈夫です。

すると、「Body Worlds」がいかに見せ物として見事にショーアップされたものかがお分かりになるでしょう。

それを美しいと思うかどうかは個人の美意識によるでしょうが、制作している側はそれを完全な美と認識して表現している――ピカソの絵みたいなもんですね。制作者側の圧倒的な美意識とそれを追求する熱情とが見る側を圧倒するんです。

「Body Worlds」の展示から伺えるその情熱と美意識はすでに芸術のレベルに達しています。日本で生で見た「人体の不思議展」の死体が単なる展示物だったのとはまるで違う域なのです。

このプラスティネーションという技術を開発した解剖学者のグンター・フォン・ハーゲンスさん、彼は別に死体が好きなわけではないのですね(世の中にはそういう人もいる)。この方は、人体の皮膚の下にあるものが好きなのです。彼にとって人間の美は皮膚ではなく、その下にある筋肉と骨格。その美に捧げる情熱と愛が死体をまるで皮膚のないまま生きているかの如く躍動感あふれるように見せる原動力となっているのでしょう。趣味嗜好はなんであれ、その欲望を昇華させてここまでやれれば芸術です。

恐らくその芸術の部分にレディー・ガガは惹かれたのではないでしょうか。
もちろん話題性としても充分ですが、ライブの舞台に乗せるにはそれなりの「美」は求められるわけで、それが「Body Worlds」の死体にはちゃんと備わっているのです。

この話が本当なのか、本当だとして実現するのかどうかも分かりませんが、レディー・ガガもハーゲンスさんも己の信じる芸術の道をこれからも突き進んで欲しいと思います。

ただし材料の調達は穏便に!