「ザ・ロード」公式サイト
映画の具体的な内容には言及しませんが、どんな作品かということについて書きますので、「それは困る」という方はご注意下さい。
ただこの作品には「意外な展開」というものはなく、実際のところストーリーを追うよりも映像を見るべき映画ですので、多少の内容は前もって分かっていても問題はないと思います。予告編や公式サイトでもある程度の事は分かりますし……というより、本編見るより予告見た方が内容がよく分かるかも?
例えばこの映画の中では何故地球の環境がこんなにも荒れ果てているのかとか、それを引き起こした大惨事はいつでその原因は何だったのかとか、この時代では寒冷化が進んでいるとか、そういう事は一切語られない。観客は男がいる現在の映像と彼が夢で見る過去の記憶とを見比べて何が起こったのかを類推するしかない。
そういう意味では観客にとって大変不親切な映画ではある。
だから観客は己の観察眼と推理力と洞察力をフル活動させて映画を見なくてはならず、見終わったあとで自分が見たものがなんだったのかもう一度咀嚼し直す必要がある。見終わった直後よりも、その内容を元にいろいろな事を考えて行く方がずっと面白いという珍しい映画なのである、これは。映画を見たというより本を読んだという印象に近いかもしれない。
もちろん「ザ・ロード」には原作がある。
不勉強にして私はまだ読んでいないのだが、この監督は原作を読んだ後の「読後感」というものをそのまま映画を見た後の観客に味わって貰うように腐心してこの作品を撮り上げたのかもしれない。
だとしたらそれは成功だろう。
その監督の意図の成功と、見終わった観客が映画に対して感じる満足感にはかなり隔たりがあるかもしれないが。
私は本作を撮ったヒルコート監督の他の作品は見ていないので、彼が映画を通じて表現したいものが何だったのか実はよく分からない。だが少なくとも「ザ・ロード」が終末を迎えた世界の中で助け合って生きる父と子の美しい親子愛を描いただけの作品でないことは確かだ。
なるほど確かにヴィゴ・モーテンセン演じる父親は献身的に息子の面倒を見る。
しかしそれは世の中の子煩悩な父親なら、そしてその息子が美しい妻の忘れ形見でたった一人しかいない我が子なら、誰でもそうするだろう事なのだ。この父だけが飛び抜けて特別な存在というわけではないのである。
その証拠に、この男には名前がない。
男は単に「男」であり、息子をもっているが故に父親であるという、どこにでもいる普遍的な人間の一例というだけなのだ。それはあなたであり私であり性別を超えて一人の人間であるという以上の何者でもない。単にジェンダーが男だから「男」としての役割を物語り上果たしているだけなのだ。
どこにでもいる、我が子を必死で育てている父親。
人類という種の、現在育児を担っている、オス。
突き詰めて言えばそういうことである。
ただこのオスは種(自分の子ども)を守るだけでなく、種の存続のために火(人類の文化)を絶やさないようにしようと決意していて、そのために余計な苦労を背負い込んでいるのだ。
それは特殊な事だろうか?
食べる物さえ見つからない世界で絶滅に瀕した人類は、それでも文化を伝えようとするのだろうか?
たぶん、人類の中にはそうしようとする人間が含まれているのだ。
映画「デイ・アフター・トゥモロー」で「グーテンベルクの聖書」を「これだけは絶対に燃やさせない」と守っていた図書館員のように。映画「薔薇の名前」で火事の最中火と煙に巻かれながらも運び出す貴重な写本を選んでいた修道士のように。
作家であるコーマック・マッカーシーも、恐らく何をおいても本を、文化を、プロメテウスの伝えた火を、人類が滅びた後までも残したいと、強く願う人なのだ。そして恐らく男を演じたヴィゴ・モーテンセンも。
彼らはその文化を汚れのない形で遺すためには死をも厭わないと思っているのだろう。
男は息子に伝えた言葉が真実であると証明するために、自らの行動を言葉の通りに制約する。言葉は行為の裏付けがなければ信頼がおけないものだからだ。「ウソをついてはいけない」という親が自ら子どもに平気でウソをついていたら、子どもはそんな親の言うことを信用するだろうか? するわけがない。子どもに「ウソをついてはいけない」というモラルを身につけて欲しいのなら、親自身が率先して「ウソをついてはいけない」という規範を示さなければならないのだ。そうして初めて親は子どもの手本足り得るのである。親は子どもに対して発言した言葉に対し、きちんと責任をとらなければいけないのである。
それは当たり前の事のようで、案外できている親は少ない。言葉でだけ子どもを叱っておいて自分の行動が全然その内容にふさわしくない親は大勢いて、子どもに愛想をつかされている。
この豊かな現代においてさえそうなのに、食べる物さえない終末期を迎えた「ザ・ロード」で父親が自分が子どもに課した教えを厳格に守るのは、非常に困難で苦しい事のはずだ。
しかしヴィゴ・モーテンセン演ずる「男」は断固としてそれをやり抜くのだ。それは「我が子さえよければ」というべたべたした甘い感情を遙かに凌駕した、使命ともいうべき決意である。己の言葉を厳格に守って痩せさらばえた男の姿は「パッション」のキリストの姿さえ彷彿とさせる。それは崇高な自己犠牲なのである。
だがそれでも「男」は特別な存在ではない。
子どもを愛する父親ならば全員がそうなって欲しいという思いをこめて、彼はどこにでもいる普遍的な存在として描かれているのだ。
願わくば全ての子どもを育てている親がこの「男」のようであるように。
我が子に対する愛だけではなく、人類という種と人間の文化に対する深い思いと使命感をもって子ども達に接してくれますように、と。
映画の具体的な内容には言及しませんが、どんな作品かということについて書きますので、「それは困る」という方はご注意下さい。
ただこの作品には「意外な展開」というものはなく、実際のところストーリーを追うよりも映像を見るべき映画ですので、多少の内容は前もって分かっていても問題はないと思います。予告編や公式サイトでもある程度の事は分かりますし……というより、本編見るより予告見た方が内容がよく分かるかも?
例えばこの映画の中では何故地球の環境がこんなにも荒れ果てているのかとか、それを引き起こした大惨事はいつでその原因は何だったのかとか、この時代では寒冷化が進んでいるとか、そういう事は一切語られない。観客は男がいる現在の映像と彼が夢で見る過去の記憶とを見比べて何が起こったのかを類推するしかない。
そういう意味では観客にとって大変不親切な映画ではある。
だから観客は己の観察眼と推理力と洞察力をフル活動させて映画を見なくてはならず、見終わったあとで自分が見たものがなんだったのかもう一度咀嚼し直す必要がある。見終わった直後よりも、その内容を元にいろいろな事を考えて行く方がずっと面白いという珍しい映画なのである、これは。映画を見たというより本を読んだという印象に近いかもしれない。
もちろん「ザ・ロード」には原作がある。
不勉強にして私はまだ読んでいないのだが、この監督は原作を読んだ後の「読後感」というものをそのまま映画を見た後の観客に味わって貰うように腐心してこの作品を撮り上げたのかもしれない。
だとしたらそれは成功だろう。
その監督の意図の成功と、見終わった観客が映画に対して感じる満足感にはかなり隔たりがあるかもしれないが。
私は本作を撮ったヒルコート監督の他の作品は見ていないので、彼が映画を通じて表現したいものが何だったのか実はよく分からない。だが少なくとも「ザ・ロード」が終末を迎えた世界の中で助け合って生きる父と子の美しい親子愛を描いただけの作品でないことは確かだ。
なるほど確かにヴィゴ・モーテンセン演じる父親は献身的に息子の面倒を見る。
しかしそれは世の中の子煩悩な父親なら、そしてその息子が美しい妻の忘れ形見でたった一人しかいない我が子なら、誰でもそうするだろう事なのだ。この父だけが飛び抜けて特別な存在というわけではないのである。
その証拠に、この男には名前がない。
男は単に「男」であり、息子をもっているが故に父親であるという、どこにでもいる普遍的な人間の一例というだけなのだ。それはあなたであり私であり性別を超えて一人の人間であるという以上の何者でもない。単にジェンダーが男だから「男」としての役割を物語り上果たしているだけなのだ。
どこにでもいる、我が子を必死で育てている父親。
人類という種の、現在育児を担っている、オス。
突き詰めて言えばそういうことである。
ただこのオスは種(自分の子ども)を守るだけでなく、種の存続のために火(人類の文化)を絶やさないようにしようと決意していて、そのために余計な苦労を背負い込んでいるのだ。
それは特殊な事だろうか?
食べる物さえ見つからない世界で絶滅に瀕した人類は、それでも文化を伝えようとするのだろうか?
たぶん、人類の中にはそうしようとする人間が含まれているのだ。
映画「デイ・アフター・トゥモロー」で「グーテンベルクの聖書」を「これだけは絶対に燃やさせない」と守っていた図書館員のように。映画「薔薇の名前」で火事の最中火と煙に巻かれながらも運び出す貴重な写本を選んでいた修道士のように。
作家であるコーマック・マッカーシーも、恐らく何をおいても本を、文化を、プロメテウスの伝えた火を、人類が滅びた後までも残したいと、強く願う人なのだ。そして恐らく男を演じたヴィゴ・モーテンセンも。
彼らはその文化を汚れのない形で遺すためには死をも厭わないと思っているのだろう。
男は息子に伝えた言葉が真実であると証明するために、自らの行動を言葉の通りに制約する。言葉は行為の裏付けがなければ信頼がおけないものだからだ。「ウソをついてはいけない」という親が自ら子どもに平気でウソをついていたら、子どもはそんな親の言うことを信用するだろうか? するわけがない。子どもに「ウソをついてはいけない」というモラルを身につけて欲しいのなら、親自身が率先して「ウソをついてはいけない」という規範を示さなければならないのだ。そうして初めて親は子どもの手本足り得るのである。親は子どもに対して発言した言葉に対し、きちんと責任をとらなければいけないのである。
それは当たり前の事のようで、案外できている親は少ない。言葉でだけ子どもを叱っておいて自分の行動が全然その内容にふさわしくない親は大勢いて、子どもに愛想をつかされている。
この豊かな現代においてさえそうなのに、食べる物さえない終末期を迎えた「ザ・ロード」で父親が自分が子どもに課した教えを厳格に守るのは、非常に困難で苦しい事のはずだ。
しかしヴィゴ・モーテンセン演ずる「男」は断固としてそれをやり抜くのだ。それは「我が子さえよければ」というべたべたした甘い感情を遙かに凌駕した、使命ともいうべき決意である。己の言葉を厳格に守って痩せさらばえた男の姿は「パッション」のキリストの姿さえ彷彿とさせる。それは崇高な自己犠牲なのである。
だがそれでも「男」は特別な存在ではない。
子どもを愛する父親ならば全員がそうなって欲しいという思いをこめて、彼はどこにでもいる普遍的な存在として描かれているのだ。
願わくば全ての子どもを育てている親がこの「男」のようであるように。
我が子に対する愛だけではなく、人類という種と人間の文化に対する深い思いと使命感をもって子ども達に接してくれますように、と。