「ザ・ロード」公式サイト

画像の下からネタバレを含む内容になります。
御覧になってない方はご注意下さい。

Who killed Cock Robin?



さて、正直に言うと、この映画を見終わった直後、私には本作が一体何を訴えたかったのかさっぱり理解できていなかった。

というのも、私にとってはヴィゴが演じた「男」のとった行動が正しいのか正しくないのかまるで判断がつかなかったからだ。

なるほど、「親」として子どもの手本になるためには「男」のとった行動はまことに正しい。正しいだけじゃなく、気高く崇高でさえあるかもしれない。

しかし破滅後の世界で生き延びていくためには、果たしてそれは正しいのかどうか。

具体的に言うならば、「人は人を食べてはいけない」と子どもに教え、それを守ることを強要するのは、本当に正しい判断といえるのかどうかである。

私は女なので、たぶんいざとなったら子どもを生かすためならば他の人間を殺しその肉を食べさせる事は厭わないだろう。そしてその子に罪の意識を植え付けないために、「人が人を殺して食べても良い状況がある」ということを百万言でも費やして論理的に語って聞かすに違いない。そんな世の中が来ない事を切に願ってはいるが。

それは或いは宗教的なタブーに起因するのかもしれない。
でも映画の中でも、恐らくは「男」と同様な宗教観を持っているであろう人間達が平気で他の人間を狩って食用にしていたから、その辺の飢えに対する耐性というか何というかは個人によっても違うのだろう。

映画の中でシャーリーズ・セロンが演じた男の妻であり息子の母親である女性は、そんな事態に直面する前に自ら死を選んだ。

彼女が身ごもったのが破滅の前なのか後なのかはよく分からなかったが、出産が破滅後であったのは確かで、そして彼女はそんな世の中に我が子を産み落とす事を心の底からいやがっていた。

それなのに、自分に無理矢理子どもを生ませたことで、彼女は夫を憎むようになったのである。彼女が死に赴くときの表情は、まるで夫に対する積年の恨みをこれで晴らせてせいせいしたわと言わんばかりだった。

そんなできごとに直面しても尚、男は自分が正しかったと信じているのだろうか? その時その時で判断しなくてはいけない時、どちらの選択肢を選ぶのかはいつも男の役目だった。その自分の選んだ選択肢がどこかで間違っていたと、彼が一瞬でも思うことはなかったのだろうか?

選択の早い段階で選ぶ側を間違っていたとしたら、その後の選択が全部正しかったとしても辿り着くのは結局間違った側にしかならない。

男が息子を伴って歩く道は、実は随分昔に間違って選んでしまった側ではなかったのだろうか?

そしてその途中途中の選択も、もしかしたら正しくない方なのではないか?

映画を見ながらずっとそんな疑問が脳裏に浮かんでいて、その頻繁に湧き上がる疑問の前には父と子の愛なんて実はかすんで見えていたのである(あの父親が息子にかける愛情は確かにとても深いけれど、でも親なら当たり前の事でもあるのだ。そう思える私はきっと幸せな人間なのだろう)。

無論この作品は男が正しいか正しくないかを問う映画ではない。

それは分かっているのだが、自分で選んで滅びの道を歩でいるようにしか見えない男にはどうにも共感を抱けなかったのである。

彼は作品のほぼ全編を通して飢え疑心暗鬼にとらわれているわけだから、選ぶ判断が毎回正しいなんてことがあるわけはない。それが理屈では分かっているのだが、それでもどうしても心が納得しないのだ。

これは原作がコーマック・マッカーシーで、彼の作品で私が読んだのは「ノーカントリー」の原作である「血と暴力の国」だけだけど、こっちの作品でもどこかで判断ミスをしたために人生を棒に振ってしまった男が描かれている。その男(映画ではジョッシュ・ブローリンが演じた方)はその後の判断は的確でそれで生き抜くことができるのだが、でもそもそも最初の段階で間違った判断をしなければ変な髪型のハビエル・バルデムが演じた殺し屋に執拗に付け狙われる事もなかったのだ。

ところでその最初の判断ミスはどこに当たるのだろうか?

まず犯罪が行われたような怪しい現場にわざわざ出向いていくべきではなかったというのがあげられる。しかし男が殺し屋に追われる直接の切っ掛けとなったのは、一旦無事に家に戻った男が夜中に思い直し、死にかけていた男のためにわざわざ水を持って行ってやったからなのである。思い立って水を持って出かけたはいいが、いざその場所に着いたら水を求めていたその男はとうに死んでいて、しかも男がその場にいた事を金と麻薬を探しに来たギャング一味に
知らせるハメになってしまったのである。

いわば仏心が仇となったわけだ。

そんなのあり?! と言いたくなるが、悲しいことに人生にはそういう不幸がつきものだ。コーマック・マッカーシーはそういう悲喜劇をあぶり出すのが得意な作家なのではあるまいか。

方向音痴の私にはよくわかるが、最初に曲がる角を間違えたら目的地にはまずたどり着けない。進めば進むだけ果てしなく迷うだけで、「ノーカントリー」の男も「ザ・ロード」の男もそうやってひたすら迷いの道を突き進んでいるようにしか見えないのである。これが本当の道なら元来た所を引き返して曲がり直せばなんとかなるが、人生ではやり直しがきかない場合もある。そういう絶望的な境遇を描くのがもしかしたらこの作家は好きなのかもしれない。

とはいえ、そんな絶望的な状況にあっても男達には生きる上での美学があり、それに殉じて死んでいく。彼らの死は哀れではあるが、憐れみを受け付けない強さがある。自分の志を守って死んでいく彼らの姿は気高くもある。同時に愚直というか、いっそバカじゃないかとさえ思いもするのだけれど。

そういうわけで私にはどこまでも感情移入できず、そのため本質的な理解が及ばない映画だったのである、この「ザ・ロード」は。

ヴィゴの演じた男は、妻に子どもを生ませるべきではなかったのだ、きっと。彼のエゴのために子どもを生まされたと思った妻を不幸にし、食べ物も友達も、そして親さえいない世界に生きるであろう子どもまでも不幸にしかねなかったから。

けれどもこんな父親に目一杯の愛情をそそがれ献身的に育てられた息子は、父と共に過ごした時間を至福のものとして記憶に刻みつけるだろう。

それならば男のくだしてきた判断は、あながち間違いでもなかったのである。
それだけがこの物語の救いといえるのだ。