「インセプション」公式サイト
クリストファー・ノーランは常に人間の心の奥底まで降りていこうとする監督である。
それは言わば、普通の人間なら「心の闇」と呼び文字通り闇に葬り去ろうとする領域にまで踏み込んで、サーチライトをあててくまなく探るような作業である。
他人の心ではそれはできない。ある程度の深さまでなら推し測ることができるかもしれないが、その推し測れるレベルは結局のところ自分が自分の心に踏み込んだ深さのレベルでしかない。人間の想像力には限界があって、自分が知っている事から類推する以上の事はほとんど想像がつかないものなのだ。
ノーラン監督は自分自身の心の奥の、下の下の階層まで降りていき……そして正気を保ったまま現実にまで再び上ってくることができた希有な人なのだ。
だから「インセプション」は監督の心そのものだ。
ところでノーラン監督と同じぐらい心の奥底に降りていった人は日本にもいる。映画監督ではなく本業はSF作家だが、筒井康隆がそうである。映像と文章という表現は違うし、御本人達の性格がまるで違うのでできあがる作品は完全に異質なものになるが、「インセプション」を見ていて思い出されるのは筒井作品の数々なのである。
ここで映像化された「パプリカ」の名前をあげてもいいけれど、原作はともかくあの映画はそこまでは達していないと思う。「インセプション」に一番近いのは実は「だばだば杉」だろう。人の夢の中に入り夢を共有するという構造がそっくりなのだ。
同じく夢を扱ったエピソードが椎名高志のマンガ、 『GS美神 極楽大作戦!! 』に出てくる。ナイトメアという悪夢を操る悪魔が出てくるこのエピソードは「GS美神」の中でも傑作で、これも「インセプション」にかなり近い。
夢を自分の心を探る手段として用いる時立ち現れる表現方法は洋の東西を問わず似通ってくるのだろうか?
さらに遡れば荘子の「胡蝶の夢」がある。夢で見た一生が現実では一瞬であったという、その夢を見ている最中と現実の時間との、時間感覚のズレは恐らく人類共通のものなのだろう。
夢ではないが、「インセプション」というタイトルが意味する事を実行する時、一歩間違うとどうなるかというのはスティーブン・キングが「炎の少女チャーリー」の中で書いている。キングは心の闇の奥底まで降りていって、サーチライトは使わずに蝋燭の炎で照らした時にできる影の恐ろしさを感じ取っている作家なのだろう。真の恐怖を感じるのが恐ろしくてならないから、エンターテインメントな恐怖を量産することでそこから目を背けてようとしているのである。
しかしそれは本当にそんなに恐ろしいのだろうか?
YES
それは真の恐怖である。
その人にとって直面することが何より恐ろしい事実、理性では分かっているのに絶対に認めたくないから心の底に閉じ込めてしまった真実を、自分の手で掘り起こし真っ向から対峙しなくてはならない事だからだ。
だから、他人にとっては、その「恐怖」は別に何も恐くなんかなかったり、するのである。
それを恐いと思うのは、その人がその真実に目を向けたくないから、その行為そのものを規制するために心の中で恐怖が生まれ、それが増幅していくのである。
「インセプション」が見せてくれるのは人の心のそのシステム、制御装置として働く機構そのものだ。
その心の強さも弱さも、激しい振幅で翻弄される自我の部分はすべてレオナルド・ディカプリオが表現している。それはあまりにも見事で、見ているだけでこちらの胸が締め付けられるようだ。何故彼はいつもこうまで痛々しい表現を必要とする役を好むのだ? それが彼自身にとって必要だからなのか?
実は「シャッター・アイランド」でレオナルドが演じた役と「インセプション」の役は少々似通っている。それでも見終わったあとの後味が「インセプション」の方がずっといいのは監督の違いによるのだろう。
レオ君の演じる役はいつも自分が本来いるべきではない(と思っている)世界の中でがんばって生きていて、そして自分が帰るべき世界に狂おしいほど恋い焦がれ、美しい夢を見ている。その思いがあまりに強く激しいため、帰るべき世界が自分の理想と違うと気づいてしまっても、帰らずにはいられない。それが彼の背負っている悲劇なのだ。
そのレオ君固有の悲劇を「インセプション」はとても美しく表現している。
そう、心の奥底に隠された真実は皆が「醜い」と決めつけているけれど、実はそうではない。とてもとても素朴で、痛いほど「美しい」ものであったりするのだと、クリストファー・ノーラン監督はこっそり教えてくれるのだ。
「醜い」真実が好きな人にはその結末では物足りないだろうからと最後にもう一ひねり加えてあるが、その結末の解釈は観客に委ねられている。どこまでも上手い作り方で最後まで締めくくられているのだ。
クリストファー・ノーランは常に人間の心の奥底まで降りていこうとする監督である。
それは言わば、普通の人間なら「心の闇」と呼び文字通り闇に葬り去ろうとする領域にまで踏み込んで、サーチライトをあててくまなく探るような作業である。
他人の心ではそれはできない。ある程度の深さまでなら推し測ることができるかもしれないが、その推し測れるレベルは結局のところ自分が自分の心に踏み込んだ深さのレベルでしかない。人間の想像力には限界があって、自分が知っている事から類推する以上の事はほとんど想像がつかないものなのだ。
ノーラン監督は自分自身の心の奥の、下の下の階層まで降りていき……そして正気を保ったまま現実にまで再び上ってくることができた希有な人なのだ。
だから「インセプション」は監督の心そのものだ。
ところでノーラン監督と同じぐらい心の奥底に降りていった人は日本にもいる。映画監督ではなく本業はSF作家だが、筒井康隆がそうである。映像と文章という表現は違うし、御本人達の性格がまるで違うのでできあがる作品は完全に異質なものになるが、「インセプション」を見ていて思い出されるのは筒井作品の数々なのである。
ここで映像化された「パプリカ」の名前をあげてもいいけれど、原作はともかくあの映画はそこまでは達していないと思う。「インセプション」に一番近いのは実は「だばだば杉」だろう。人の夢の中に入り夢を共有するという構造がそっくりなのだ。
同じく夢を扱ったエピソードが椎名高志のマンガ、 『GS美神 極楽大作戦!! 』に出てくる。ナイトメアという悪夢を操る悪魔が出てくるこのエピソードは「GS美神」の中でも傑作で、これも「インセプション」にかなり近い。
夢を自分の心を探る手段として用いる時立ち現れる表現方法は洋の東西を問わず似通ってくるのだろうか?
さらに遡れば荘子の「胡蝶の夢」がある。夢で見た一生が現実では一瞬であったという、その夢を見ている最中と現実の時間との、時間感覚のズレは恐らく人類共通のものなのだろう。
夢ではないが、「インセプション」というタイトルが意味する事を実行する時、一歩間違うとどうなるかというのはスティーブン・キングが「炎の少女チャーリー」の中で書いている。キングは心の闇の奥底まで降りていって、サーチライトは使わずに蝋燭の炎で照らした時にできる影の恐ろしさを感じ取っている作家なのだろう。真の恐怖を感じるのが恐ろしくてならないから、エンターテインメントな恐怖を量産することでそこから目を背けてようとしているのである。
しかしそれは本当にそんなに恐ろしいのだろうか?
YES
それは真の恐怖である。
その人にとって直面することが何より恐ろしい事実、理性では分かっているのに絶対に認めたくないから心の底に閉じ込めてしまった真実を、自分の手で掘り起こし真っ向から対峙しなくてはならない事だからだ。
だから、他人にとっては、その「恐怖」は別に何も恐くなんかなかったり、するのである。
それを恐いと思うのは、その人がその真実に目を向けたくないから、その行為そのものを規制するために心の中で恐怖が生まれ、それが増幅していくのである。
「インセプション」が見せてくれるのは人の心のそのシステム、制御装置として働く機構そのものだ。
その心の強さも弱さも、激しい振幅で翻弄される自我の部分はすべてレオナルド・ディカプリオが表現している。それはあまりにも見事で、見ているだけでこちらの胸が締め付けられるようだ。何故彼はいつもこうまで痛々しい表現を必要とする役を好むのだ? それが彼自身にとって必要だからなのか?
実は「シャッター・アイランド」でレオナルドが演じた役と「インセプション」の役は少々似通っている。それでも見終わったあとの後味が「インセプション」の方がずっといいのは監督の違いによるのだろう。
レオ君の演じる役はいつも自分が本来いるべきではない(と思っている)世界の中でがんばって生きていて、そして自分が帰るべき世界に狂おしいほど恋い焦がれ、美しい夢を見ている。その思いがあまりに強く激しいため、帰るべき世界が自分の理想と違うと気づいてしまっても、帰らずにはいられない。それが彼の背負っている悲劇なのだ。
そのレオ君固有の悲劇を「インセプション」はとても美しく表現している。
そう、心の奥底に隠された真実は皆が「醜い」と決めつけているけれど、実はそうではない。とてもとても素朴で、痛いほど「美しい」ものであったりするのだと、クリストファー・ノーラン監督はこっそり教えてくれるのだ。
「醜い」真実が好きな人にはその結末では物足りないだろうからと最後にもう一ひねり加えてあるが、その結末の解釈は観客に委ねられている。どこまでも上手い作り方で最後まで締めくくられているのだ。