「エルム街の悪夢」公式サイト
ウェス・クレイブンがホラーの名監督として名を上げたのがこの作品。当時悪夢に出てくる怪人、フレディーを演じたロバート・イングランドまで何故か一躍人気者となってしまいました。彼の演じたフレディーって凶悪なんだけど、どこかしら憎めない可愛さというか愛嬌があったんだよね♪ それは俳優のロバート・イングランド御自身の雰囲気が醸し出されていたからなんだな、と今回のリメイクを見て改めて痛感した次第。
*画像の下からネタバレになります。
今回フレディーを演じたのはジャッキー・アール・ヘイリー。
ミッキー・ローク程派手に取りざたされてはいないけれど、やはり一度どん底に落ちてから這い上がって再びキャリアを花咲かせたと言われている俳優さん。最近では「ウォッチメン」に出ていたけれど……なんちゅーか、歪んだ役でしたわ。歪んだなりに一生懸命ではあるんだけど、それが正しいか正しくないかは見る人によるというか、世界そのものの見方によるというか。「ウォッチメン」の世界観の中では恐らく一番のヒーローなんだろうけれど、それは一般社会ではひょっとしたら「社会の敵」にあたるものかもしれないという、極めて微妙なラインに立っている役を演じてました。極端にいえば社会病質的というか……今の言葉でいうなら「反社会性人格障害」だそうで。
で、ほぼそのまんまの性格設定でフレディーを演じたもんですから、フレディー、悪夢に巣くう魔物というより単なる変質者の逆恨みが怨念化しただけの存在になっちゃった。もちろんかぎ爪つき。おぞましいという点では昔のフレディー以上かもしれないけれど、かつてのフレディーが備えていた超自然的恐怖は影を潜めてしまいましたね。
かつてウェス・クレイブンが生み出したフレディー・クルーガーには独特の恐怖が備わっていました。シリーズ化されたホラーの殺人鬼は皆そうだと言ってしまえば身も蓋もないですが、フレディーも退治できない存在なんですよね。不死とか不死身とかいうのともちょっとニュアンスが違って、フレディーは完全にやっつけたはずなのにまたいつの間にか元の姿に戻って活動を再開しているのですよ。
「ハロウィン」のマイケル・マイヤーズも、「13日の金曜日」のジェイソンも、続編の映画の終わりには必ず主人公にやっつけられて終わるんです。彼らが死ななければその回の物語は完結しないから、とりあえずその作品の中では一旦死んで物語を一応のハッピーエンドというか解決に導いて終わり、それで次のシリーズの時になるとまた何らかの方法でちゃっかり都合よく生き返るわけですね。彼らにはちゃんとインターバルがあって、その作品の主役に1回は殺されて活動を停止している期間があるんですよ。次に甦った時に前回の主役がすでに主役じゃなかったら真っ先に殺したりとかしますけど、「甦る」ということはそれまではちゃんと「死んでる」んです、物理的に。
ところがフレディーはこのパターンとは一線を画していて、彼は完全には死なないんですよね。それもそのはず、彼はすでに現実世界では死んでいる人間で、夢の世界にしか存在していませんから。それでも映画の最後の方では登場人物達が知恵を絞って何とか彼を退治してハッピーエンドを迎えようと獅子奮迅の働きをするわけですよ。そしてそれがきちんと成功をおさめたかのように見えるのに……どういうわけかフレディーは復活してしまうんです。それはもはや不条理と言ってもいいほどに。
どうしてかなあとずっと思ってました。どうしてジェイソンやマイケルは退治できるのに、フレディーはできないんだろうって。ドラキュラでも狼男でもゾンビでも幽霊でも幽霊屋敷でも悪魔付きでも、それなりに映画の中では退治する方法が確立されていて、その手法にのっとればそのストーリーの上では完全に恐怖の対象である彼らを退ける事ができるのに、フレディーだけは取り除くことができないのはなんでだろ、って。
違うのは、その他の恐怖の対象(モンスター達ね)は外界――自分を取り巻く外の世界――に存在しているけれど、フレディーが存在しているのは夢の中だということです。映画の中では夢も外の世界のように見せられているけれど、夢というものは自分の内面にしかないものですよね。でも、じゃあ、どうして、自分の夢なのに自分でコントロールしてフレディーを追い出す事ができないんでしょう?
リメイクの「エルム街」を見てそんな事を考えてる時に、たまたまテレビで「マクベス」の舞台を見たんです。
「マクベス」といえば有名なのはマクベス夫人の手についた、彼女にしか見えない、洗っても洗っても落ちない血の汚れですよね。それは彼女の抱えた罪の意識が見せているものだから、どれだけ洗っても決して落ちないのです。
あ、これだ、とその時初めて分かりました。
フレディーは、いわばマクベス夫人の手についた血のしみと同じもの。
人が胸の奥に抱えた罪の意識です。
罪の意識が心のどこかにある限り、どれだけ手を洗っても消えない血のしみと同じようにフレディーは何度でもよみがえり続けるのでしょう。
罪の意識、罪悪感というものは人が贖罪を果たしたと心の底から納得しない限り、打ち消そうが誤魔化そうが表面は忘れてしまおうが、決してなくならないものだからです(それにつけてもシェイクスピアって偉大だわ~)。
リメイク版ではそれがワリと分かりやすく打ち出されていた様に思います。罪の意識を感じていて、同時にトラウマも抱えているのが個人レベルの問題にされていましたから。
オリジナル版ではそこまで個人レベルに特化されてなくて、共同体全体が共有している大きな罪悪感として表現されていましたから、フレディーも解き明かしてはいけない大きな秘密として得体がしれないままの存在だったのでずっと不気味で恐ろしいものでしたよ。そういう「口にするのも忌まわしい秘密」って、あんまり明らかにしちゃうと「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的な拍子抜け感を味わってしまうのよね。なんだよ、単なるペドフィリアかよ、みたいな。その分、感じるべき罪の意識も軽くなって、オリジナル版を覆っていた陰鬱な雰囲気も薄くなってしまったみたいです。
オリジナル版では親の代の罪悪感が無言の圧力の如く子どもの代にのしかかっていて、そのせいで世代間に断絶があって、それが不幸の源で、みたいな感じもあったんですけど、それも時代だったんでしょうか。リメイクではそういう親と子の対立みたいなものは最小限に抑えられていました。
まあ、若手の俳優さん達はとてもがんばっていて、見応えはあったしそれなりに恐かったりもしたのでリメイクとしては及第点だったのではないでしょうか。
私としては「インセプション」を見る前に見ておけてよかったなと思いました。
ウェス・クレイブンがホラーの名監督として名を上げたのがこの作品。当時悪夢に出てくる怪人、フレディーを演じたロバート・イングランドまで何故か一躍人気者となってしまいました。彼の演じたフレディーって凶悪なんだけど、どこかしら憎めない可愛さというか愛嬌があったんだよね♪ それは俳優のロバート・イングランド御自身の雰囲気が醸し出されていたからなんだな、と今回のリメイクを見て改めて痛感した次第。
*画像の下からネタバレになります。
今回フレディーを演じたのはジャッキー・アール・ヘイリー。
ミッキー・ローク程派手に取りざたされてはいないけれど、やはり一度どん底に落ちてから這い上がって再びキャリアを花咲かせたと言われている俳優さん。最近では「ウォッチメン」に出ていたけれど……なんちゅーか、歪んだ役でしたわ。歪んだなりに一生懸命ではあるんだけど、それが正しいか正しくないかは見る人によるというか、世界そのものの見方によるというか。「ウォッチメン」の世界観の中では恐らく一番のヒーローなんだろうけれど、それは一般社会ではひょっとしたら「社会の敵」にあたるものかもしれないという、極めて微妙なラインに立っている役を演じてました。極端にいえば社会病質的というか……今の言葉でいうなら「反社会性人格障害」だそうで。
で、ほぼそのまんまの性格設定でフレディーを演じたもんですから、フレディー、悪夢に巣くう魔物というより単なる変質者の逆恨みが怨念化しただけの存在になっちゃった。もちろんかぎ爪つき。おぞましいという点では昔のフレディー以上かもしれないけれど、かつてのフレディーが備えていた超自然的恐怖は影を潜めてしまいましたね。
かつてウェス・クレイブンが生み出したフレディー・クルーガーには独特の恐怖が備わっていました。シリーズ化されたホラーの殺人鬼は皆そうだと言ってしまえば身も蓋もないですが、フレディーも退治できない存在なんですよね。不死とか不死身とかいうのともちょっとニュアンスが違って、フレディーは完全にやっつけたはずなのにまたいつの間にか元の姿に戻って活動を再開しているのですよ。
「ハロウィン」のマイケル・マイヤーズも、「13日の金曜日」のジェイソンも、続編の映画の終わりには必ず主人公にやっつけられて終わるんです。彼らが死ななければその回の物語は完結しないから、とりあえずその作品の中では一旦死んで物語を一応のハッピーエンドというか解決に導いて終わり、それで次のシリーズの時になるとまた何らかの方法でちゃっかり都合よく生き返るわけですね。彼らにはちゃんとインターバルがあって、その作品の主役に1回は殺されて活動を停止している期間があるんですよ。次に甦った時に前回の主役がすでに主役じゃなかったら真っ先に殺したりとかしますけど、「甦る」ということはそれまではちゃんと「死んでる」んです、物理的に。
ところがフレディーはこのパターンとは一線を画していて、彼は完全には死なないんですよね。それもそのはず、彼はすでに現実世界では死んでいる人間で、夢の世界にしか存在していませんから。それでも映画の最後の方では登場人物達が知恵を絞って何とか彼を退治してハッピーエンドを迎えようと獅子奮迅の働きをするわけですよ。そしてそれがきちんと成功をおさめたかのように見えるのに……どういうわけかフレディーは復活してしまうんです。それはもはや不条理と言ってもいいほどに。
どうしてかなあとずっと思ってました。どうしてジェイソンやマイケルは退治できるのに、フレディーはできないんだろうって。ドラキュラでも狼男でもゾンビでも幽霊でも幽霊屋敷でも悪魔付きでも、それなりに映画の中では退治する方法が確立されていて、その手法にのっとればそのストーリーの上では完全に恐怖の対象である彼らを退ける事ができるのに、フレディーだけは取り除くことができないのはなんでだろ、って。
違うのは、その他の恐怖の対象(モンスター達ね)は外界――自分を取り巻く外の世界――に存在しているけれど、フレディーが存在しているのは夢の中だということです。映画の中では夢も外の世界のように見せられているけれど、夢というものは自分の内面にしかないものですよね。でも、じゃあ、どうして、自分の夢なのに自分でコントロールしてフレディーを追い出す事ができないんでしょう?
リメイクの「エルム街」を見てそんな事を考えてる時に、たまたまテレビで「マクベス」の舞台を見たんです。
「マクベス」といえば有名なのはマクベス夫人の手についた、彼女にしか見えない、洗っても洗っても落ちない血の汚れですよね。それは彼女の抱えた罪の意識が見せているものだから、どれだけ洗っても決して落ちないのです。
あ、これだ、とその時初めて分かりました。
フレディーは、いわばマクベス夫人の手についた血のしみと同じもの。
人が胸の奥に抱えた罪の意識です。
罪の意識が心のどこかにある限り、どれだけ手を洗っても消えない血のしみと同じようにフレディーは何度でもよみがえり続けるのでしょう。
罪の意識、罪悪感というものは人が贖罪を果たしたと心の底から納得しない限り、打ち消そうが誤魔化そうが表面は忘れてしまおうが、決してなくならないものだからです(それにつけてもシェイクスピアって偉大だわ~)。
リメイク版ではそれがワリと分かりやすく打ち出されていた様に思います。罪の意識を感じていて、同時にトラウマも抱えているのが個人レベルの問題にされていましたから。
オリジナル版ではそこまで個人レベルに特化されてなくて、共同体全体が共有している大きな罪悪感として表現されていましたから、フレディーも解き明かしてはいけない大きな秘密として得体がしれないままの存在だったのでずっと不気味で恐ろしいものでしたよ。そういう「口にするのも忌まわしい秘密」って、あんまり明らかにしちゃうと「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的な拍子抜け感を味わってしまうのよね。なんだよ、単なるペドフィリアかよ、みたいな。その分、感じるべき罪の意識も軽くなって、オリジナル版を覆っていた陰鬱な雰囲気も薄くなってしまったみたいです。
オリジナル版では親の代の罪悪感が無言の圧力の如く子どもの代にのしかかっていて、そのせいで世代間に断絶があって、それが不幸の源で、みたいな感じもあったんですけど、それも時代だったんでしょうか。リメイクではそういう親と子の対立みたいなものは最小限に抑えられていました。
まあ、若手の俳優さん達はとてもがんばっていて、見応えはあったしそれなりに恐かったりもしたのでリメイクとしては及第点だったのではないでしょうか。
私としては「インセプション」を見る前に見ておけてよかったなと思いました。