「キャタピラー」公式サイト
*ネタバレがありますので未見の方はご注意ください。
また、「キャタピラー」以外の映画作品についてもネタバレを含む可能性があります。
映画タイトルを見て未見と思われた方はご注意を願います。
「キャタピラー」の主役、久蔵は四肢を失った上、満足に話すこともできなくなって帰ってきた。確か「耳もダメになった」と言われていたように思う。
「キャタピラーでは一般公開される前に久蔵の妻シゲ子役の寺島しのぶさんの受賞ニュースばかりが先行したため、主役はてっきり彼女なのだと思っていたが、どっこい映画を見ると久蔵役の大西信満さ んの演技もすさまじい迫力で、手足がなくても喋ることができなくても(だから当然台詞はほとんどない)飾り物なんかじゃなくて立派な主役なんだと認識させ られてしまった。例え受賞がなかったにせよ、彼の演技力についてもっと語られてもいいんじゃないかと義憤さえ覚えたものである。
四肢がなく、話すこともできない。
実はこの久蔵と似たような境遇の男が主人公でアカデミー賞に4部門でノミネートされた作品がある。
「潜水服は蝶の夢を見る」(公式サイト )がそれで、この主人公のジャン=ドミニク・ボビーは脳溢血が原因で運動機能が麻痺し喋ることもできなくなったのだが、意識はあり、知性も記憶も保たれた ままなのだ。しかしジャン=ドミニクにできるのは聴くことと左目の視野の及ぶ範囲で見ることだけ。体を動かすことも話すこともできない彼は自分の意志を他 人に伝えることができない。従って彼を取り巻く人々は彼を「何もできない存在」と認識し、全てにおいて世話をしてやらなければいけない相手として何とはな しに赤ん坊扱いするような雰囲気さえ生まれてくるのである。
私は「キャタピラー」を見ながら、久蔵とジャン=ドミニクとをつい比較してしまっていた。久蔵は運動機能そのものは残っているが、動かしたくても手足がない。ジャン=ドミニクには四肢はあるが、動かしたくても自分の力では動かせない。
どっちがより不幸だろうか? どっちもひどく不幸には違いないが。当事者ならば、どう思うのだろう? それは当事者でなければ判らないことかもしれないが。
「ミリオンダラー・ベイビー」というクリント・イーストウッドが監督でこれはアカデミーの作品賞を受賞した映画があるが、この中でも四肢が麻痺した人物が 描かれている。その人の脚が入院してからのトラブルのせいで切断しなければならなくなった時、担当医師はごく簡単に「じゃあ切ってしまいましょう」と言う のだ。どうせもう動かない脚だし、脚一本分でも減れば介護者にとっては楽になるとでも言わんばかりに。
でも、切断されてしまった方はそうは思わない。
体にかけられている毛布の、なくなった脚の部分が平べったくなっているのを見て
「奴ら(=病院の医師や看護師達)が脚を盗った」
と悲痛な声をあげるのである。
久蔵が自分の体をどう思っているのかというのは、実は映画を一回見たぐらいではよくわからない。なにしろ口がきけないのでそれを語るセリフはないし、モノローグとして心中を打ち明けるシーンもない。彼が何を考えているのかは、その表情と行動から推し量るしかないのである。
四肢がなくても口がきけなくても、実は彼にはひとつだけ自分の意志を自分で伝える手段は残されていて、それが「拒否」である。顔を背けるとか、或いは全身 を使うとかして、久蔵は拒否だけははっきりとできるのだ。拒否した上で、それを相手(=妻)が受け入れない場合もあるにしろ、己の意志はきっちりと示せ る。
それができるだけ、ひょっとしたら久蔵はジャンよりも恵まれているのかもしれない。
「潜水服は蝶の夢を見る」で、ジャンが退屈しないようにと看護師が彼の部屋を出る時にテレビをつけていくのだが、それが彼の好みからかけ離れた番組を放送 し続けるチャンネルで、スイッチを切ることはおろか目をそらすことも耳をふさぐこともできない彼にとっては拷問とも思える時間が延々と続くというシーンが ある。
これはたまらん、と見ていて私は思った。
テレビを見たくなければ消せるという選択肢を持っている事は、なんと幸せなんだろうとしみじみ思ったものだ。
哀れなジャンにはテレビを見ないという選択肢が与えられていなかった。すなわちテレビ視聴を「拒否する」事さえできないほど、無力だったのである。
その後ジャンの元にある研究者が訪れ、その人のおかげで彼は自分の意志を少しずつだが他者に示すことができるようになっていく。
しかし、どこまでいってもジャンにとっての自己表現は相手あってのものである。彼の左目の動きを見てその意志をはかろうとする人がいない限り、彼の意思疎 通は成立しない。彼の周囲にいる人が「彼には自分の意志を伝える術がある」ことを知らなければ、彼はやっぱり「自分では何もできない、赤ん坊同然」なもの なのである。
幸いジャンには彼の知性や人格を認めてくれる人々が周囲にいてくれたから、彼らを通じて自分の思いのたけを言葉として残すことができた。不十分ではあっても自己表現はできたのである。
久蔵には「拒否」はできたが、しかしそれより高度な自己表現はほとんどできなかった。口で筆をくわえて字を書くことはできたが、それは単に欲求を伝えるための手段で、それ以上の事----たとえば詩を書くとか----は彼は望まなかったらしい。
その結果、彼の感情は次第に自分の内側に向かうようになる。
人間、対外的に自分を表現している間はそれがガス抜きとなって精神のバランスを保っていられるものだが、様々な思いが自分自身の心の中にしか向かわないといずれ鬱屈した想いが充満して精神に破綻をきたす。
「キャタピラー」ではセリフもなく、回想シーンがフラッシュバックされるだけの久蔵の内面だが、そうやって徐々に徐々に蝕まれていく様子が演技だけで手に 取るようにわかるのである。九死に一生を得たものの四肢を失った事への怒りが生への執着へ変わる様子。なんとか自分を奮い立たせ生き抜こうとする努力。し かし田舎での変わりばえしない日常を繰り返す内にその気持ちが擦り切れていき、誰にも汲み取って貰えない自分の心の内を表現しようとする事にも倦み疲れ、 過去の記憶を蘇らせる事のみで退屈をしのぐようになっていく有様。ところがその記憶をたどる行為が今度は自責の念を生み、次第のそこから逃れられなくなっ ていく恐怖。そういったことがどれも表情とうなり声と体の動きで見事に表現されているのである。大西さんのその演技を見た時、「潜水服が蝶の夢を見る」が ノミネートされるなら「キャタピラー」だって十分アカデミーにノミネートされる価値があると思ったものだ。
久蔵がジャンより不幸なのは、身の回りの世話をしてくれる妻がいても、その妻が自分の心の内を全く理解しようとしなかった点だろう。そもそもこの夫婦には心の交流がなかったのだから仕方ないのだが(久蔵は決して良い夫ではなかったので)。
なるほど、妻は食事の世話も下の世話も献身的にする。しかしそれは愛ではなく義務だからだし、「四肢を失った夫を献身的に支える妻」というステータスを得 たいからとも言えるのだ。戦争中は久蔵は軍神扱いだったから、その妻であれば鼻が高いというものだし、その名に恥じてはいけないという思いもある。
この映画の反戦の部分って、この、まあ言ってみればロクデナシの久蔵を軍神に祭り上げる部分にあるわけだ。観客はその「軍神」になった久蔵が実際はどんな 人間なのかを見せつけられ、「軍神」という言葉に踊らされる人々が真剣であれば真剣であるほど、その滑稽さが浮き彫りになるという仕掛けなのである。最後 の最後に久蔵がその「軍神」というレッテルを失った時にどうなるのかまできちんと描ききって見事に終わる。
そういう意味では「戦争なんかやっちゃいかん!」と映画を見ながら痛切に思うわけではあるが、実は「反戦映画」というのとはちょっとジャンルが違うんじゃないかなあとも思うのだ。
ここで描かれているのは表現手段を奪われた男の苦しみであり、そしてその男の心中を全く理解しない周囲の人々の姿なのである。
「潜水服は蝶の夢を見る」にも「ミリオンダラー・ベイビー」にも彼らの苦しみを理解しようと努める人がいたが、「キャタピラー」には誰もいない。そういう意味では久蔵は一番不幸なのかもしれない。
だが、彼には自分でできる唯一の表現手段が残されている。
「拒否」というその伝家の宝刀を彼が最後に抜き放つことができたのは、ある意味幸せだったに違いない。
*ネタバレがありますので未見の方はご注意ください。
また、「キャタピラー」以外の映画作品についてもネタバレを含む可能性があります。
映画タイトルを見て未見と思われた方はご注意を願います。
「キャタピラー」の主役、久蔵は四肢を失った上、満足に話すこともできなくなって帰ってきた。確か「耳もダメになった」と言われていたように思う。
「キャタピラーでは一般公開される前に久蔵の妻シゲ子役の寺島しのぶさんの受賞ニュースばかりが先行したため、主役はてっきり彼女なのだと思っていたが、どっこい映画を見ると久蔵役の大西信満さ んの演技もすさまじい迫力で、手足がなくても喋ることができなくても(だから当然台詞はほとんどない)飾り物なんかじゃなくて立派な主役なんだと認識させ られてしまった。例え受賞がなかったにせよ、彼の演技力についてもっと語られてもいいんじゃないかと義憤さえ覚えたものである。
四肢がなく、話すこともできない。
実はこの久蔵と似たような境遇の男が主人公でアカデミー賞に4部門でノミネートされた作品がある。
「潜水服は蝶の夢を見る」(公式サイト )がそれで、この主人公のジャン=ドミニク・ボビーは脳溢血が原因で運動機能が麻痺し喋ることもできなくなったのだが、意識はあり、知性も記憶も保たれた ままなのだ。しかしジャン=ドミニクにできるのは聴くことと左目の視野の及ぶ範囲で見ることだけ。体を動かすことも話すこともできない彼は自分の意志を他 人に伝えることができない。従って彼を取り巻く人々は彼を「何もできない存在」と認識し、全てにおいて世話をしてやらなければいけない相手として何とはな しに赤ん坊扱いするような雰囲気さえ生まれてくるのである。
私は「キャタピラー」を見ながら、久蔵とジャン=ドミニクとをつい比較してしまっていた。久蔵は運動機能そのものは残っているが、動かしたくても手足がない。ジャン=ドミニクには四肢はあるが、動かしたくても自分の力では動かせない。
どっちがより不幸だろうか? どっちもひどく不幸には違いないが。当事者ならば、どう思うのだろう? それは当事者でなければ判らないことかもしれないが。
「ミリオンダラー・ベイビー」というクリント・イーストウッドが監督でこれはアカデミーの作品賞を受賞した映画があるが、この中でも四肢が麻痺した人物が 描かれている。その人の脚が入院してからのトラブルのせいで切断しなければならなくなった時、担当医師はごく簡単に「じゃあ切ってしまいましょう」と言う のだ。どうせもう動かない脚だし、脚一本分でも減れば介護者にとっては楽になるとでも言わんばかりに。
でも、切断されてしまった方はそうは思わない。
体にかけられている毛布の、なくなった脚の部分が平べったくなっているのを見て
「奴ら(=病院の医師や看護師達)が脚を盗った」
と悲痛な声をあげるのである。
久蔵が自分の体をどう思っているのかというのは、実は映画を一回見たぐらいではよくわからない。なにしろ口がきけないのでそれを語るセリフはないし、モノローグとして心中を打ち明けるシーンもない。彼が何を考えているのかは、その表情と行動から推し量るしかないのである。
四肢がなくても口がきけなくても、実は彼にはひとつだけ自分の意志を自分で伝える手段は残されていて、それが「拒否」である。顔を背けるとか、或いは全身 を使うとかして、久蔵は拒否だけははっきりとできるのだ。拒否した上で、それを相手(=妻)が受け入れない場合もあるにしろ、己の意志はきっちりと示せ る。
それができるだけ、ひょっとしたら久蔵はジャンよりも恵まれているのかもしれない。
「潜水服は蝶の夢を見る」で、ジャンが退屈しないようにと看護師が彼の部屋を出る時にテレビをつけていくのだが、それが彼の好みからかけ離れた番組を放送 し続けるチャンネルで、スイッチを切ることはおろか目をそらすことも耳をふさぐこともできない彼にとっては拷問とも思える時間が延々と続くというシーンが ある。
これはたまらん、と見ていて私は思った。
テレビを見たくなければ消せるという選択肢を持っている事は、なんと幸せなんだろうとしみじみ思ったものだ。
哀れなジャンにはテレビを見ないという選択肢が与えられていなかった。すなわちテレビ視聴を「拒否する」事さえできないほど、無力だったのである。
その後ジャンの元にある研究者が訪れ、その人のおかげで彼は自分の意志を少しずつだが他者に示すことができるようになっていく。
しかし、どこまでいってもジャンにとっての自己表現は相手あってのものである。彼の左目の動きを見てその意志をはかろうとする人がいない限り、彼の意思疎 通は成立しない。彼の周囲にいる人が「彼には自分の意志を伝える術がある」ことを知らなければ、彼はやっぱり「自分では何もできない、赤ん坊同然」なもの なのである。
幸いジャンには彼の知性や人格を認めてくれる人々が周囲にいてくれたから、彼らを通じて自分の思いのたけを言葉として残すことができた。不十分ではあっても自己表現はできたのである。
久蔵には「拒否」はできたが、しかしそれより高度な自己表現はほとんどできなかった。口で筆をくわえて字を書くことはできたが、それは単に欲求を伝えるための手段で、それ以上の事----たとえば詩を書くとか----は彼は望まなかったらしい。
その結果、彼の感情は次第に自分の内側に向かうようになる。
人間、対外的に自分を表現している間はそれがガス抜きとなって精神のバランスを保っていられるものだが、様々な思いが自分自身の心の中にしか向かわないといずれ鬱屈した想いが充満して精神に破綻をきたす。
「キャタピラー」ではセリフもなく、回想シーンがフラッシュバックされるだけの久蔵の内面だが、そうやって徐々に徐々に蝕まれていく様子が演技だけで手に 取るようにわかるのである。九死に一生を得たものの四肢を失った事への怒りが生への執着へ変わる様子。なんとか自分を奮い立たせ生き抜こうとする努力。し かし田舎での変わりばえしない日常を繰り返す内にその気持ちが擦り切れていき、誰にも汲み取って貰えない自分の心の内を表現しようとする事にも倦み疲れ、 過去の記憶を蘇らせる事のみで退屈をしのぐようになっていく有様。ところがその記憶をたどる行為が今度は自責の念を生み、次第のそこから逃れられなくなっ ていく恐怖。そういったことがどれも表情とうなり声と体の動きで見事に表現されているのである。大西さんのその演技を見た時、「潜水服が蝶の夢を見る」が ノミネートされるなら「キャタピラー」だって十分アカデミーにノミネートされる価値があると思ったものだ。
久蔵がジャンより不幸なのは、身の回りの世話をしてくれる妻がいても、その妻が自分の心の内を全く理解しようとしなかった点だろう。そもそもこの夫婦には心の交流がなかったのだから仕方ないのだが(久蔵は決して良い夫ではなかったので)。
なるほど、妻は食事の世話も下の世話も献身的にする。しかしそれは愛ではなく義務だからだし、「四肢を失った夫を献身的に支える妻」というステータスを得 たいからとも言えるのだ。戦争中は久蔵は軍神扱いだったから、その妻であれば鼻が高いというものだし、その名に恥じてはいけないという思いもある。
この映画の反戦の部分って、この、まあ言ってみればロクデナシの久蔵を軍神に祭り上げる部分にあるわけだ。観客はその「軍神」になった久蔵が実際はどんな 人間なのかを見せつけられ、「軍神」という言葉に踊らされる人々が真剣であれば真剣であるほど、その滑稽さが浮き彫りになるという仕掛けなのである。最後 の最後に久蔵がその「軍神」というレッテルを失った時にどうなるのかまできちんと描ききって見事に終わる。
そういう意味では「戦争なんかやっちゃいかん!」と映画を見ながら痛切に思うわけではあるが、実は「反戦映画」というのとはちょっとジャンルが違うんじゃないかなあとも思うのだ。
ここで描かれているのは表現手段を奪われた男の苦しみであり、そしてその男の心中を全く理解しない周囲の人々の姿なのである。
「潜水服は蝶の夢を見る」にも「ミリオンダラー・ベイビー」にも彼らの苦しみを理解しようと努める人がいたが、「キャタピラー」には誰もいない。そういう意味では久蔵は一番不幸なのかもしれない。
だが、彼には自分でできる唯一の表現手段が残されている。
「拒否」というその伝家の宝刀を彼が最後に抜き放つことができたのは、ある意味幸せだったに違いない。