「FALLEN 青い泪のベリル」は、本のタイトルである。
「青」を基調にした装丁が美しい。
夜景を彩るライトがまるで宝石の様に輝いて見える。
光を纏った青があまりに透き通っているので、本を持つ手にそのまま水のように流れ出してきそうだ。
その水は、枯れ果てるまで泣いた「泪」の雫なのだろうか。
「透明な青」は孤独の色。
持てば凍てつく氷のブルー。
自ら心を閉ざした者の、視界に広がる冷たい世界。
それが青。
「ベリル」は緑柱石。緑ならばエメラルド。
でも青だったら、その名は「アクアマリン」に変わる。
「アクアマリン」は海の色。
その透き通った輝きは、海に落とすとたちまち周りの色に溶け込んで見つけることができなくなるという。
水底に落ちたアクアマリンはきっと自分が石ではなく水だと思って過ごすのだろう。
同じ色をしていても、自分を取り巻く世界は自分と全く異質なものだと気づかぬまま、違和感だけを覚えながら悠久の時を過ごすかもしれない。
でもひょっとして、何百年も何千年もの時の隙間に奇跡が起きて、海に沈んだ他のアクアマリンが何かの拍子にコツンとぶつかってきたら……水とは違うその感覚にアクアマリンは互いに自己を呼び覚まされ、相手のアクアマリンこそが自分の同胞だと初めて気づくのかもしれない。
これはそんな物語。
主人公はアクアマリンではないけれど。
http://www.youtube.com/user/BlueBerylPort
* アマゾンなどの「なか見!検索」で10ページ分を読む事ができます。
FALLEN 青い泪のベリルに書かれているのはイメージを喚起させる素材としての言葉。
対象の具体的描写を可能な限り避け特定化を廃することで、登場人物達はいわば素体となった。
「素体」とは、フィギュアを制作する時に原型となる人形のことである。
そのまっさらな原型に「孤独」「暗殺者」「美貌」「高級娼婦」「特殊能力」といったキーワードを元に肉付けしていくのは読者の特権。自分の好みでいかようにも作り上げていく事ができるのだ。
独自の肉付けが面倒ならば既存のイメージを借りてもいい。
好きな映画、好きなアニメ、好きなコミック、どのメディアからでもどのシーンからでも借りてくることができる。
脇役はもっと簡単。
最初から名前を持たず、役割としての地位や役職でしか表されないから。
それはすでにカリカチュアライズされ、ドラマの中で何千回何万回と繰り返された対話の再現として認識されるので、人物造形に時間を割く煩わしささえ感じない。
そうやって言葉によってイメージを喚起され肉付けされた登場人物達は、ストーリーの進行に伴ってそのイメージを変えるのも自由自在。ここはあのコミックのキスシーン、ここには前に見た映画のアクション、このキャラクターには有名な悪役をあてはめて、こっちのイヤなヤツにはそっくりなあの俳優をあてはめよう……そんな風に考えをめぐらすことが段々楽しくなってくる。
もっともドラマチックなストーリーラインはページをめくる手を休ませないので、そんな考えをめぐらすゆとりなんてないかもしれないのだが。
「FALLEN 青い泪のベリル」は新感覚のノベル。
万華鏡のように一振りするたびに全く違った美しい面を垣間見せてくれるその作品世界にどっぷりとはまるには、秋の夜長はちょうどいい。
「青」を基調にした装丁が美しい。
夜景を彩るライトがまるで宝石の様に輝いて見える。
光を纏った青があまりに透き通っているので、本を持つ手にそのまま水のように流れ出してきそうだ。
その水は、枯れ果てるまで泣いた「泪」の雫なのだろうか。
「透明な青」は孤独の色。
持てば凍てつく氷のブルー。
自ら心を閉ざした者の、視界に広がる冷たい世界。
それが青。
「ベリル」は緑柱石。緑ならばエメラルド。
でも青だったら、その名は「アクアマリン」に変わる。
「アクアマリン」は海の色。
その透き通った輝きは、海に落とすとたちまち周りの色に溶け込んで見つけることができなくなるという。
水底に落ちたアクアマリンはきっと自分が石ではなく水だと思って過ごすのだろう。
同じ色をしていても、自分を取り巻く世界は自分と全く異質なものだと気づかぬまま、違和感だけを覚えながら悠久の時を過ごすかもしれない。
でもひょっとして、何百年も何千年もの時の隙間に奇跡が起きて、海に沈んだ他のアクアマリンが何かの拍子にコツンとぶつかってきたら……水とは違うその感覚にアクアマリンは互いに自己を呼び覚まされ、相手のアクアマリンこそが自分の同胞だと初めて気づくのかもしれない。
これはそんな物語。
主人公はアクアマリンではないけれど。
http://www.youtube.com/user/BlueBerylPort
* アマゾンなどの「なか見!検索」で10ページ分を読む事ができます。
FALLEN 青い泪のベリルに書かれているのはイメージを喚起させる素材としての言葉。
対象の具体的描写を可能な限り避け特定化を廃することで、登場人物達はいわば素体となった。
「素体」とは、フィギュアを制作する時に原型となる人形のことである。
そのまっさらな原型に「孤独」「暗殺者」「美貌」「高級娼婦」「特殊能力」といったキーワードを元に肉付けしていくのは読者の特権。自分の好みでいかようにも作り上げていく事ができるのだ。
独自の肉付けが面倒ならば既存のイメージを借りてもいい。
好きな映画、好きなアニメ、好きなコミック、どのメディアからでもどのシーンからでも借りてくることができる。
脇役はもっと簡単。
最初から名前を持たず、役割としての地位や役職でしか表されないから。
それはすでにカリカチュアライズされ、ドラマの中で何千回何万回と繰り返された対話の再現として認識されるので、人物造形に時間を割く煩わしささえ感じない。
そうやって言葉によってイメージを喚起され肉付けされた登場人物達は、ストーリーの進行に伴ってそのイメージを変えるのも自由自在。ここはあのコミックのキスシーン、ここには前に見た映画のアクション、このキャラクターには有名な悪役をあてはめて、こっちのイヤなヤツにはそっくりなあの俳優をあてはめよう……そんな風に考えをめぐらすことが段々楽しくなってくる。
もっともドラマチックなストーリーラインはページをめくる手を休ませないので、そんな考えをめぐらすゆとりなんてないかもしれないのだが。
「FALLEN 青い泪のベリル」は新感覚のノベル。
万華鏡のように一振りするたびに全く違った美しい面を垣間見せてくれるその作品世界にどっぷりとはまるには、秋の夜長はちょうどいい。