「悪人」は見ていないけれど、「告白」は見た。

原作は読んでいないが、そこに描かれていたのは子を持つ全ての母に対しての激しい呪詛と狂おしいほどの怨念と、そしていくばくかの嫉妬。嫉妬こそが呪詛と 怨念を生み出す元となったのだろうけれど、そのエネルギーは全て他の「母としての存在」に対する攻撃的な感情に変換されてしまっていたようだ。

映画はその女のどろどろとした感情を一回型にはめてオーブンで焼いて、デコレーションして切り分けて見せたようなものだった。

ケーキ(作品)全体像がつかめないので、切り分けられた断片(エピソード)のデコレーションのケバケバしさに辟易しながらもそれを頼りに元の形に復元しようとするのだが、時間が経過する間に土台部分がどんどん崩れて形を失っていき、最終的に残ったのは形骸化したデコレーションと何かどろどろしたものだけ、みたいな感じである。

断片ごとの主人公は違っているが、少年達は最終的に彼らの母を苦しめる存在として機能しているだけだ。映画の中ではそれなりに彼らの苦悩は表現されているものの、その苦しみすら彼らを生んだ母親を苦しめるための手段である。一人の母親は息子を過保護にしたことで、一人の母親は息子を捨てたことで、過剰か無視かの違いはあっても息子の求める愛に対して応分な愛を返さなかったということで息子からの復讐を受けるのだ。そしてその復讐を果たした結果、息子は自分の母によって究極の破滅に至るのである。健全な親子関係なんてこの世にはない、と言わんばかりの作品だ。

その少年達が破滅に至るように細工を施しているのがこの映画のヒロインなのだが、それが自分の娘を殺された復讐であるというにはあまりに陰湿なのである。直接の犯人である少年達への復讐というよりも、子どもを失った苦しみを他の母親達にも味わわせるために少年達を利用しているようにしか思えないのだ。

子どもを失った私の苦しみを、のほほんと呑気に子ども育てて幸せそうな顔してる他の母親すべてに思い知らせてやりたい。とってつけたような幸せ家族を演じている母親の子どもなんか、みんな死ねばいいのだ。そして親がいるのに愛されてないなどど思いながら図々しく成長した生意気な子どもも、みんなみんな死ねばいい。死んで、世界が不幸になれば、その時初めて私の気持ちが世間に理解できるだろう。

これが私が映画を通じて感じとった原作の心の叫びで、ここまではっきり全世界が不幸になれと強く願っている作品も珍しい。それも個人的な恨みから。普通はそういう作品は書かれても流通ルートにはのらないのよね。

でも「告白」は本屋大賞を受賞した上に映画化されて、今回は映画でも日本アカデミー賞の作品賞を受賞してしまった。世の中どうなってるんだ。

こんな、個人的な嫉妬と怨嗟が不特定多数を対象に発動されてるような作品が世間一般に受け入れられ高評価を得るということは、日本の社会がそうなってるってこと。

社会の中に不満が渦巻いていて、それがともすれば個人攻撃となって矛先を誰かに向け、スケープゴートとなったその人が社会的に(或いは実際に)抹殺されるまで糾弾の手をとめない。そういう、日本社会の底に常に淀んでいる「気」と「告白」の孕んでいる「恨み」は恐らくピタリとシンクロするのである。たぶん、この映画を見て高評価を下した人は、そこで自分が普段抱えている得体のしれない「気」が何故か「晴れる」のを感じたのだろう。この映画が賞を受賞したということは、そう感じた人がとても多かったということになる。恐ろしいことではないか。

こんな心寒い、殺伐とした映画が作品賞を受賞する。まことにもって、今の日本の世相を反映した結果といえるだろう。

やり場のない怒りを胸に抱え、ある日それを不特定多数の人々に向ける人達。小説をかける人には救いがあるが、それができない人は犯罪に走る。せめて「告白」を見ることでガス抜きになるのなら、この作品が作られた価値があるということだ。

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