今年のアカデミーは私としてはもひとつ盛り上がらないまま終わってしまった。というのもメインの賞にノミネートされている作品で見たものがほとんどないからである。その内の大半はまだ日本公開されてないから仕方がないともいえるのだが、そもそもノミネート作品にSFやファンタジー系の作品が、例年にも増して(?)少ないというのも理由である。「ターミネーター」とか「スタートレック」とか「エイリアン」とか、そういうのがないと見てても張り合いがないわよ。
唯一のお気に入りが「インセプション」で、この作品が4冠に輝いたのと、あと同じノーラン監督の「バットマン」シリーズでブルース・ウェインを演じているクリスチャン・ベールが「ファイター」で助演男優賞に輝いてくれたのが嬉しかった。クリスチャンは名優だけど、彼がどんなに素晴らしい演技を見せたところでSFやアメコミ原作では賞はとれない(どころかノミネートもされない)のは歴然としているわけだからね。同じ理由で「インセプション」も技術系の賞しか貰えてないわけだけど。
でも私としては脚本賞も「インセプション」でいいじゃないかと思っていたりしたので、それがとれなかったのが微妙に悔しかった。ライバルの他の作品をひとつも見ていないから相手候補の粗探しをすることもできないわけで、受賞した「英国王のスピーチ」にケチをつけることすらできない。この悔しさは一体どこへぶつければいいのよ?!
ま、大体そう言う場合は見たことのある作品の方へ矛先が向かうもので、今回はそれに当たるのは「ソーシャル・ネットワーク」ぐらいしかないのだが、この作品の賞の貰い方もなんというか気の毒で、同情の方が先にたってしまうのよね。
なんと申しましょうか、時流に乗り遅れていると思われたくない年寄り(のオスカー会員)達が、本当は賞を与えたくなんかないんだけども世間で評判だからあげないわけにいかなくて、か~といってSFやファンタジーのように視覚効果や音響編集といった技術系で受賞させるわけにもいかなくて、メインの賞でもちょっと周辺にあたるような脚色や編集で手を打った、って感じなんですものね。作曲に関しては、映画見たのに曲を全然思い出せないという始末で……たぶん、ごくごく自然だったのでしょうね。
デビッド・フィンチャーって、私にはよく分からない監督で、なんでこんな作品作ったんだろと思うことがしばしばなのですよ。映像は美しいんだけど、監督が何を伝えたがっているのか理解ができないのね。登場人物を様々な極限状況に置くのが好きなわりには、そこからサスペンスを盛り上げるのではなくその環境に順応させてしまうのが不思議というか。ひょっとして人間はどんな環境であってもその気になれば順応できるというのがテーマなのだろうか、う~む???
「WOWOW」で中継を見てたら「ソーシャル・ネットワーク」について興味深いことが言われていました。普通、ハリウッドでは映画が始まってから終わるまでの間に主人公が何らかの成長を見せるものなのに、「ソーシャル」に関しては主人公が何にも成長しないというもの。わはははっ、確かに。主人公はシンジ君かいっっ!
何をもって「成長」と定義づけるのかにもよるでしょうが、確かに「ソーシャル」の最初と最後で主人公のマークには何の変化も生じていないように見えます。たくさんの事を学んだはずなのに、それがまるっきり何の影響も及ぼしてないように見えるんですね。
ところでここで問題。
では彼がどう変わっていれば、一般的な観客は「彼が成長した」と認めるのでしょうか。
これはねえ、絶対に彼がプログラミングのスキルをさらに伸ばしたとか、タイピングが早くなったとか、もっと頭がよくなったとか、そういうことじゃないんですよね。
観客が求めているのは彼の「人間的な成長」なんですよ。彼は感情がどこか未成熟なまま知性だけを突出して伸ばしてしまった存在なんですね(映画の中のマークですよ)。そのアンバランスさが見ている人を落ち着かなくさせる。だからマークが自分のアンバランスさに気づいて、それを何とかしてバランスがとれているように見せることができたとしたら、観客やマークの周囲にいる人々は彼に「大人になった」「成長した」という評価を与えるはずなんです。
ところがマーク自身はそんな評価を望んではいない。彼はそんな漠然としたものは必要ないと思っている。だから自分が「大人になる」努力なんぞ時間の無駄だからしないわけです。
マークは自分の欲しいものは具体的な「もの」としてしか認識できないんですよ。「彼女」は欲しいけれど、得たいのしれない「愛」には多分興味ない。一緒に遊んだり話したりする「友達」は欲しいけれど、目に見えない「友情」なんて気にもとめてない。「仕事」は欲しいけれどそのために「信用」が大事だなんてこれっぽっちも思ってない。対峙している相手の感情の動きは読めるけれど、自分の行動が将来誰かの感情を傷つけるかもしれないという危惧は抱かない。
彼は自分の内面を見つめたことがないんです。
彼にとっての感情は単なる反応で、それ以上のものではない。
本当はそうではないのに、敢えてそのレベルで留めてしまっている。
何故なら、そうしておけば、傷つくことがないから。たとえ心の奥深くが傷ついていたとしたって、そのことに気づかずにすますことができるから。
うんと小さな子どもの頃からそうやって、自分を守ってきたんでしょうね。頭の良い子は同世代の悪ガキから嫌われたりするものだから。
とまあ、こういう人物造形で「ソーシャル・ネットワーク」は脚色賞をとったわけですよ。深みがないのではなく、内面を完全に鏡の中に押し込めて感情をその表面で反射させちゃうような人物ね。それはそれでおもしろいですが、でも私としてはやっぱり人間は深く掘り下げて見せて欲しいと思うわけですよ。
その点「インセプション」は夢という手段を用いてかつてない程奥の奥まで人間の心の中に踏み込んだ作品でしたからね、当然これが私にとってのベストであり、できることなら脚本賞だけじゃなくって作品賞もできるものなら監督賞も取って欲しかったぐらいなのです。監督賞はノミネートもされませんでしたけどさ。
「インセプション」で暴かれていくのはコブの心で、その迷宮にずいずい踏み込んで隠されていた心の断片を拾っていくのはアリアドネです。しかしアリアドネがそこに行けるということは、コブ自身がそれだけ深く自分の心に潜ってすでに道をつけているからなのですね。自分の心の中を徹底的に精査して、何をしなければいけないのかも分かっていて、でもそれができない。それがコブの弱さなんですが、同時に人間的な魅力でもある。ここでは登場人物は皆大人なのでバランスのとれた心をもっているのですが、その中で唯一ほんのちょっとアンバランスな部分を垣間見せるコブが魅力的に見えるようになっているのです。
で、ハリウッドスタイルにのっとってますから、コブはちゃんとラストシーンで成長を遂げてます。アリアドネの助けを得つつも、最終的には自分自身で心の弱さを克服し、新たな人生へ一歩を踏み出すのですから。それも大変分かりやすく。どうせ映画見るんだったらこうやってカタルシスを得る方が私は好きですね。
「インセプション」は視覚効果だけが売り物の作品ではなく、後味の悪さを文学的と誤解させるような真似もせず、実は至極真っ当な映画なんですよ。全然SFでさえないのに、なんでこれが評価されないんだと思うととっても悔しい私なのでした。
ところで「インセプション」の映像がたくさん使われたおかげで、アカデミーに今回出席してないレオ君の顔の方がノミニーであるジェシー・アイゼンバーグよりよっぽど露出が多かったと思うのですが、なんでしょ、これは。皮肉なのか意地悪なのか、アカデミーって時々ワケわかんないことしますよね。「タイタニック」のレオ君まで見られて私はよかったけれど。
あ、そういえばケイト・ブランシェットがプレゼンターをやってる時の背景が「ロード・オブ・ザ・リング」のアラゴルンとアルウェンだったのよ! こんな所にヴィゴ・モーテンセンまで出てるとは! これが今回一番のサプライズだったかな? ウケちゃいました♪
唯一のお気に入りが「インセプション」で、この作品が4冠に輝いたのと、あと同じノーラン監督の「バットマン」シリーズでブルース・ウェインを演じているクリスチャン・ベールが「ファイター」で助演男優賞に輝いてくれたのが嬉しかった。クリスチャンは名優だけど、彼がどんなに素晴らしい演技を見せたところでSFやアメコミ原作では賞はとれない(どころかノミネートもされない)のは歴然としているわけだからね。同じ理由で「インセプション」も技術系の賞しか貰えてないわけだけど。
でも私としては脚本賞も「インセプション」でいいじゃないかと思っていたりしたので、それがとれなかったのが微妙に悔しかった。ライバルの他の作品をひとつも見ていないから相手候補の粗探しをすることもできないわけで、受賞した「英国王のスピーチ」にケチをつけることすらできない。この悔しさは一体どこへぶつければいいのよ?!
ま、大体そう言う場合は見たことのある作品の方へ矛先が向かうもので、今回はそれに当たるのは「ソーシャル・ネットワーク」ぐらいしかないのだが、この作品の賞の貰い方もなんというか気の毒で、同情の方が先にたってしまうのよね。
なんと申しましょうか、時流に乗り遅れていると思われたくない年寄り(のオスカー会員)達が、本当は賞を与えたくなんかないんだけども世間で評判だからあげないわけにいかなくて、か~といってSFやファンタジーのように視覚効果や音響編集といった技術系で受賞させるわけにもいかなくて、メインの賞でもちょっと周辺にあたるような脚色や編集で手を打った、って感じなんですものね。作曲に関しては、映画見たのに曲を全然思い出せないという始末で……たぶん、ごくごく自然だったのでしょうね。
デビッド・フィンチャーって、私にはよく分からない監督で、なんでこんな作品作ったんだろと思うことがしばしばなのですよ。映像は美しいんだけど、監督が何を伝えたがっているのか理解ができないのね。登場人物を様々な極限状況に置くのが好きなわりには、そこからサスペンスを盛り上げるのではなくその環境に順応させてしまうのが不思議というか。ひょっとして人間はどんな環境であってもその気になれば順応できるというのがテーマなのだろうか、う~む???
「WOWOW」で中継を見てたら「ソーシャル・ネットワーク」について興味深いことが言われていました。普通、ハリウッドでは映画が始まってから終わるまでの間に主人公が何らかの成長を見せるものなのに、「ソーシャル」に関しては主人公が何にも成長しないというもの。わはははっ、確かに。主人公はシンジ君かいっっ!
何をもって「成長」と定義づけるのかにもよるでしょうが、確かに「ソーシャル」の最初と最後で主人公のマークには何の変化も生じていないように見えます。たくさんの事を学んだはずなのに、それがまるっきり何の影響も及ぼしてないように見えるんですね。
ところでここで問題。
では彼がどう変わっていれば、一般的な観客は「彼が成長した」と認めるのでしょうか。
これはねえ、絶対に彼がプログラミングのスキルをさらに伸ばしたとか、タイピングが早くなったとか、もっと頭がよくなったとか、そういうことじゃないんですよね。
観客が求めているのは彼の「人間的な成長」なんですよ。彼は感情がどこか未成熟なまま知性だけを突出して伸ばしてしまった存在なんですね(映画の中のマークですよ)。そのアンバランスさが見ている人を落ち着かなくさせる。だからマークが自分のアンバランスさに気づいて、それを何とかしてバランスがとれているように見せることができたとしたら、観客やマークの周囲にいる人々は彼に「大人になった」「成長した」という評価を与えるはずなんです。
ところがマーク自身はそんな評価を望んではいない。彼はそんな漠然としたものは必要ないと思っている。だから自分が「大人になる」努力なんぞ時間の無駄だからしないわけです。
マークは自分の欲しいものは具体的な「もの」としてしか認識できないんですよ。「彼女」は欲しいけれど、得たいのしれない「愛」には多分興味ない。一緒に遊んだり話したりする「友達」は欲しいけれど、目に見えない「友情」なんて気にもとめてない。「仕事」は欲しいけれどそのために「信用」が大事だなんてこれっぽっちも思ってない。対峙している相手の感情の動きは読めるけれど、自分の行動が将来誰かの感情を傷つけるかもしれないという危惧は抱かない。
彼は自分の内面を見つめたことがないんです。
彼にとっての感情は単なる反応で、それ以上のものではない。
本当はそうではないのに、敢えてそのレベルで留めてしまっている。
何故なら、そうしておけば、傷つくことがないから。たとえ心の奥深くが傷ついていたとしたって、そのことに気づかずにすますことができるから。
うんと小さな子どもの頃からそうやって、自分を守ってきたんでしょうね。頭の良い子は同世代の悪ガキから嫌われたりするものだから。
とまあ、こういう人物造形で「ソーシャル・ネットワーク」は脚色賞をとったわけですよ。深みがないのではなく、内面を完全に鏡の中に押し込めて感情をその表面で反射させちゃうような人物ね。それはそれでおもしろいですが、でも私としてはやっぱり人間は深く掘り下げて見せて欲しいと思うわけですよ。
その点「インセプション」は夢という手段を用いてかつてない程奥の奥まで人間の心の中に踏み込んだ作品でしたからね、当然これが私にとってのベストであり、できることなら脚本賞だけじゃなくって作品賞もできるものなら監督賞も取って欲しかったぐらいなのです。監督賞はノミネートもされませんでしたけどさ。
「インセプション」で暴かれていくのはコブの心で、その迷宮にずいずい踏み込んで隠されていた心の断片を拾っていくのはアリアドネです。しかしアリアドネがそこに行けるということは、コブ自身がそれだけ深く自分の心に潜ってすでに道をつけているからなのですね。自分の心の中を徹底的に精査して、何をしなければいけないのかも分かっていて、でもそれができない。それがコブの弱さなんですが、同時に人間的な魅力でもある。ここでは登場人物は皆大人なのでバランスのとれた心をもっているのですが、その中で唯一ほんのちょっとアンバランスな部分を垣間見せるコブが魅力的に見えるようになっているのです。
で、ハリウッドスタイルにのっとってますから、コブはちゃんとラストシーンで成長を遂げてます。アリアドネの助けを得つつも、最終的には自分自身で心の弱さを克服し、新たな人生へ一歩を踏み出すのですから。それも大変分かりやすく。どうせ映画見るんだったらこうやってカタルシスを得る方が私は好きですね。
「インセプション」は視覚効果だけが売り物の作品ではなく、後味の悪さを文学的と誤解させるような真似もせず、実は至極真っ当な映画なんですよ。全然SFでさえないのに、なんでこれが評価されないんだと思うととっても悔しい私なのでした。
ところで「インセプション」の映像がたくさん使われたおかげで、アカデミーに今回出席してないレオ君の顔の方がノミニーであるジェシー・アイゼンバーグよりよっぽど露出が多かったと思うのですが、なんでしょ、これは。皮肉なのか意地悪なのか、アカデミーって時々ワケわかんないことしますよね。「タイタニック」のレオ君まで見られて私はよかったけれど。
あ、そういえばケイト・ブランシェットがプレゼンターをやってる時の背景が「ロード・オブ・ザ・リング」のアラゴルンとアルウェンだったのよ! こんな所にヴィゴ・モーテンセンまで出てるとは! これが今回一番のサプライズだったかな? ウケちゃいました♪