「アイガー北壁」公式サイト

映画の冒頭でまず語られるのはタイトルにもなっているアイガー北壁が如何に人が登坂するのを拒む「殺人の壁」かということだ。それは映画の中で言葉と言い回しを代えながら何度も何度も繰り返される。アイガー北壁にアタックを試みるのは死ぬことだ、と。

そうやってアイガーの恐ろしさを観客の印象に植え付けておいて、スクリーンに現れるのは青空を背景にした美しい山の頂きだ。幾何学的に設計されたようにさ え見える整った形の山頂は雪の白と岩の黒が生み出すコントラストで彩られ、息を呑むほど美しい。その瞬間、観客はそれまでに聞いたアイガーの悪い噂はすっ かり忘れ、
「あの山に登ってみたい!」
という無邪気で激しい憧憬にかられるのだ。

人が山に登りたい、天の高みにそびえ立つあの頂きの上に立ちたいと思うのは、恐らくとてもとても原始的な衝動で、誰も到達したことのない所にいってみたいと思うのは或いは種の拡散を目論む本能なのかもしれない。

なんであれ、観客は映画の中であの美しい山の姿を目にした瞬間に主人公達が山に登る理由を本能的に理解する。アイガー北壁にではない。彼らが山に挑む、いや挑まざるを得ないその激しい欲求を体の中に感じ取るのだ。

あれは、人間が、登らなくてはならないものなのだ、あの神のおわしますような頂きは。

この映画は登山が盛んで高峰の初登頂を競い合った時代を背景に描いている。「アイガー北壁」は中でも最後の難所として長く人を寄せ付けなかった曰くの山 だ。だからこそ、そこに初登頂することが名誉とされ、国威発揚の道具とされたりもする。主人公達はそうした周囲の思惑に振り回され、その時に最善な判断、 とるべき正しい道をわかっていながら敢えてその判断を捨てとるべきではなかった道を進み、ちょっとずつ間違いを積み重ねて行くことになるのだ。

そのドラマは実話だけに凄まじい。人間の想像力なんて軽く超えてしまっている。
この「アイガー北壁」と同じような作品を一つあげるなら、やはり実話がベースとなった韓国映画の「チェイサー」だろう。人間の生への執念の激しさを描いてこの二つは共通している。

この作品にはいろんなテーマが盛り込まれていて、そのどれもがとても明確である。例えば「感想文を書け」と言われたらこれだけ書きやすい作品もないと思う。いろんな切り取り方ができるし、そしてそれは皆上手に描かれていて観客にも理解しやすい。

でも、そんな主人公達の激しい生き方や翻弄された人生から伝わってくる言葉にしやすいドラマより、言葉にできない映像の方がずっと素晴らしいのだ。

どんな言葉よりも雄弁に、人が山に登らずにはいられない気持ちを表現しているあのショット。そう、主人公達がアイガー北壁に登るのを決意する背景にはその時代の政治事情があったかもしれない。
だが、何故そもそも彼らは山に登りたいと思ったのだ? 
その答えは映像で明確に語られている。
何故ならば、そこに、自分達が登るのを待っている山があったからだ。

本来ならばアイガー北壁だってそうであるべきだったのだ。
彼らが純粋に登りたいとだけ思い、そのためのチャンスをじっくり待つことができたならもっと楽な登山ができたはずだったのだ。

でも人間、しがらみがあると判断にどうしても妙なベクトルがかかってしまうもので、それは別に登山じゃなくても最寄りの店より遠くてもポイントカードのあ る店を選ぶような、そういう微妙な優先順位のつけ方が、ちりもつもれば自分の首を絞めるような結果になるというそういうことで、結局「アイガー北壁」でも 描かれているのはそういう事だったりするのだ。目先の欲にとらわれると正しい判断ができなくなってしまうという人間の性を、登山の映画を見ながら何故か観 客は我が事のように見直してしまうのである。

山と対峙した時に、そんな目先の欲にとらわれていたらダメなのである。

主人公のトニーとアンディが山に登りたいから登っているシーンが前半にある。険しい山で命の危険さえある登山だったが、無欲で無心な彼らはそれを難なくこ なしている。登っている時は身体能力の限界まで使っているはずなのに、登ってしまうとその苦労はまるで何もなかったかのようになる。その山に登ったという 達成感だけで、他にはどんなトロフィーもいらないのだ。

だって、自分は今、居るべき所に居るのだから。

その喜び、その歓喜は到底言葉にできるものではない。その時、彼らを取り巻く世界の中で、彼らは文字通り頂点に立っている。遙か眼下に臨む街並みは小さ く、人々は豆粒のようだ。そんな環境でトニーとアンディの様子はごく普通だ。彼らにとってその喜びはある程度慣れたものであり、より一層の歓喜を求めるに はもっと高いところ、もっと難しいところに挑戦するしかない……。

山を愛している人間の、そんなちょっと複雑な思いをこの映画は余す所なく写し撮っている。

同じ山を舞台にした映画でも日本の「劔丈 点の記」では感じたのは山というよりも仕事にかける情熱と愛だったのだが、この「アイガー北壁」には山そのものに対する深い愛と畏怖を感じるのだ。

最初に美しいアイガーを見た時「登りたい!」と反射的に思った私は、人間はこうやって「登りたい!」と思う山全てに登ってしまったから、次に月を目指したんだなとしみじみ思った。
そして月にも到達し宇宙ステーションさえ現実のものになった今、次に目指すは火星なのだ。

山も月も火星も、そこにいて私達が行くのを待っている。
私達は行かねばならない。
誰の名誉でもどの国の威信のためでもなく、ましてや神の領域に達するなんて大それた考えでもなく、ただ単純に、そこに行きたいから、行ったらきっと気持ちいいに違いないから、例え途中にどんな困難が待ち受けているとしても、私達は行かねばならないのだ。

英雄の冒険譚を描いたギリシア神話から「スタートレック」のようなSFまで、人間は常に同じ事を考えているのである。山登りはそれを現実のものにしてくれるのかもしれない。


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