しっかしまー、おもしろくないとは言わないんだけど、どうしてこうも
地味!
なの? ってゆーよりむしろ
爺むさいのよ!
キャラクターの顔に皺があるわけじゃないけれど、どうしてこう、弾けるような若さがないの?!
「アリエッティ」もそうだったけれど、キャラクター達に欠けているものがある。
それは自分が信じたことをとことん押し切るだけの勢い、無茶を無茶と知りつつやりとげるだけの気迫、その中で最後まで人を思いやる真の優しさ、少年と少女が初めて通わせた時に感じる胸の震え、その相手を失ったと思った時の押しつぶされるような苦しさ、そういった、生きている時に感じる全ての気持ち。

その激しさがあるから、宮崎駿監督が描くキャラクターにはほとばしるような生命力があふれているのだけれど、残念ながらそれは絵の表面をなぞって他人が得られるものではないらしい。

同じ食事の支度をするのでも、「トトロ」のさつきちゃんや「ハウル」のソフィーやハウルが作っているシーンはその一挙一動がスリリングでセクシーなのに、「コクリコ坂」の海だとただ日常の繰り返しにしか見えない。当時の日常を丹念に描きたかったというのは分かるけれど、そのシーンに魅力がなければ見ても何の感興も覚えない。

宮崎駿作品では「食べる」ことは「生きる」ことと直結している。でも、「コクリコ坂」や「アリエッティ」で描かれているのは「食事の支度」であって、「日常生活の一部」でしかないのだ。それも何故か女性が担う仕事として(「ラピュタ」ではパズーがシータに朝食を用意してあげたものだ)。「食べる」喜びは、「生きる」喜びは、男女の平等は、どこへいったのだ?

「日常生活」が大事だと描くことで「コクリコ坂」はファンタジーからの脱却をはかったつもりなのかもしれない。料理や掃除などの日常が大事だと訴えることはある意味「アリエッティ」に対するアンチテーゼでもあるが、しかしどっちにしろそれを担うのは「女性」であって、「男性」がそれによって「支えられている」存在であることに変わりはない。

女性が天を翔け世界を変えるストーリーは、ファンタジーでしかないのか?

ファンタジーでしかありえないとしても、それでも宮崎駿は作品を見る全ての女性に翼を与えてくれる(その形は何であれ、空が飛べる)。だからこそ、私は宮崎アニメが好きなのだ。そこで描かれる少女や元少女達は皆女神であり、決して
婢女ではないのだ。その証拠に彼女達は他のなにものにも屈しない。そして少女の側にいる男性達は、女神を守る存在として自らを律し、そこにいるのである。だから宮崎駿アニメは人口の半分である女性からも熱い支持を得ているのだ。

残念ながら、ジブリは宮崎駿あってのものだ。表面の真似はできてもその本質を継ぐものはまだ生まれていない。