「善き人」はスバル座の最終日の金曜に見て他の3作は翌土曜に見たんですが、この中で一番おもしろかったのは「宇宙人ポール」でしたね。
その「宇宙人ポール」は渋谷のシネクイントで夕方に見て、見終わったその足で東銀座のシネパトスに行って初日だった「グッド・ドクター」の最終回を見たんですが、試写会の「ラヴ~」を見たお昼からずっと飲まず食わずだったので「グッド~」の頃にはもうへろへろでした。
そのへろへろの私にとって一番のショックだったのは、シネパトスで予告見てたら「宇宙人ポール」のがかかって、なんと「当館で上映」のおしらせが! ちょっと~、ここで見られるんだったら渋谷でなんか見なかったわよ~! ガックリ肩を落とす私。ま、シネパトスでの「ポール」は28日からなんだそうで、それよりは一週間早く見られた分、シネクイントに行ったかいはあったかも……。
「ポール」は公開館を着実に増やしているようですが、まあ、さもありなんというのは映画を見た人なら誰でも思うことでしょう。だっておもしろいもん! なんと申しましょうか、主役のお二人は「オタク」の役なんですが、でもここにあげた4本の中では一番精神が健全でした。宇宙人のポールさんも含めて、出てくるメインの人達が皆ごく真っ当なのがよかったですわ。
「善き人」は舞台がナチス席巻の時代ですから、登場人物達がいかに普通の人達でも世界自体が逆鉤十字に傾いちゃってるわけですよ。その中ではヴィゴが演じている教授も何者かに足を引っ張られるようにして「善き人」である自分を保てなくなってるのですね。
それでも根が善人ですから教授にはその傾きをなんとか正そうとするチカラが備わっているんです。作品としてはここにちょっとした皮肉が仕掛けられていて、精神をまっすぐにしようとすると行動が逆鉤十字に傾いていくという部分がミソなわけです。ヴィゴの演技力がいかんなく発揮されている部分でもあります。
ちなみに「善き人」を見てしみじみ思ったのは、ヴィゴってあらゆる艱難辛苦を耐え忍ぶ人なのね、ということ。教授がひとりで負ってなんとかしようとしている状況って、ある意味アラゴルンの時より救いがないかも。アラゴルンには何をどうすればどうなる(サウロンを倒せば王になる)という道がちゃんとあって、かすかとはいえ希望があったわけだけど、教授の生活は先が見えないんだもんね。
教授が日々実践していることが果たして本当に善きことなのかどうかはわからない。けれど彼には間違いを正そうという強い意志があった。そのために彼は自分にとって不本意なことをやってのけるという一種の自己犠牲をも払っている。その精神こそが彼を「善き人」と呼べる所以だろうし、この作品の美しさだ。少なくとも私はそう思う。
実のところ、「宇宙人ポール」だってそうなのだ。
アメリカ政府がポールに対して行ってきた間違った事を正そうと、通りがかりのイギリス人のSFオタク二人がなりゆきでがんばっちゃう話なのである。オタク二人にはSF好きという以外にポールを助ける義理はない。それでもポールを星に帰してやるのが正しいことだと思うから、彼ら二人はついつい一生懸命になって散財という自己犠牲まで払ってしまう。そんな彼らは可愛いし、やっぱり正しいことをしていると思うから観客だって応援したくなってしまうのだ。
この2作に比べると、「ラヴ・ネヴァー・ダイズ」と「グッド・ドクター」の主役達は、言っちゃ悪いが性根が曲がっている。
「ラヴ・ネヴァー・ダイズ」は実は映画ではなくて「オペラ座の怪人」の続編にあたるミュージカルの舞台を撮影したものなのだが、主役は当然ファントムであるからして性根が曲がっていて当然ではあるのだが、「オペラ座」の時には母性本能に訴える孤独で純粋な魂の持ち主だったはずが、続編ではそんなのカケラもなくなって、尊大で鼻持ちならないエゴイストに成り果てていた。
「ラヴ・ネヴァー・ダイズ」は続編にはありがちの、無理矢理続きのストーリーを作ったために正編を台無しにしている類の物語だった。ただし舞台そのものは素晴らしく、歌もダンスも衣装も最高である。正編と完全に切り離して見るならば、楽しめるのは間違いない。
それでも感動できないのは、ファントムがあまりに傲慢で身勝手だから。で、その身勝手さが案外日常に転がっている芸術家にはよくある話だから、ありふれすぎててつまらないのよね。「オペラ座の怪人」では崇高で神秘的でさえあった世界が、「ラヴ・ネヴァー・ダイズ」では手垢で汚れた日常生活にまでおちてきた感じです。もっとも私の知っている「オペラ座の怪人」はジェラード・バトラーの映画版だから、舞台版で見ていた人はまた違った感想を抱くのかもしれないけれど。
芸術のためと言いつつ、徹頭徹尾自分の幸せしか追い求めない怪人に魅力はない。
魅力はないが、それでも怪人のおかれた境遇に同情することはできるし、彼が明確な目標を定めてそれを実現するために刻苦精励しているのは間違いないわけだから、その努力に敬意を払うことはできる。
でも「グッド・ドクター」の若き医師であるマーティンは!
――ちなみに主役なんで演じているのは当然オーランド・ブルームです――。
これだけ魅力のないキャラクターというのはかつて見たことがない。
もちろんそれは私が魅力を感じないというだけではあるし、私が魅力を感じないから見なかった類の作品にはこういったキャラクターがたくさんいるのかもしれないけれど、それはおいといて。
しかしこの自称猛烈なオーランドファンである私をしてドン引きさせる程、マーティンというキャラクターには魅力がなかった。当然、彼が主役である「グッド・ドクター」という作品も。何のためにこんなの撮ったのかわからない。これならまだ「ムカデ人間」の方がおもしろかったわよ(これもシネクイントで見たんだけど)。
あ、「ムカデ人間」の主役兼悪役もお医者様なの♪ そういう意味では共通点が……ないか。でもキャラクターとしては「ムカデ」のマッド・ドクターの方がなんぼかマシ。いや、己の歪んだ欲求を満たすべく人をさらっては妙な手術を施してる「ムカデ」ドクターの方が、自分が何をしたいのかわかっていないマーティンよりよっぽど魅力的ですわ。あの強烈な存在感は一度見たら目に焼き付いて忘れられないもんね。
さてここで私が何に対して魅力を覚えるのかというのが自分自身にも明白になったわけだけど、それは「強固な意志」なのね。それがグッドでもバッドでもマッドでも何でも構わない、自分自身で目標を決めたらそこに向かって邁進する意志の強さが魅力なのよ。そしてそれをやり遂げる実行力もね。
「宇宙人ポール」のSFオタク二人は、なりゆきではあるけれど一度決めたらごく自然にそれ(=ポールを助けること)を実行していたし、「善き人」の教授はいろいろ回り道はしたけれど最終的には自分の決めた事を断固として遂行した。「ラヴ・ネヴァー・ダイズ」のファントムは自分の芸術を至高のものにするための努力を惜しまなかった。
しかるにだ。
「グッド・ドクター」のマーティンって、自分のしたいことがよくわかってない人なのよね。
彼はよいお医者さんになりたかったわけだけど、それは他人に「彼は良いお医者さんだ」と言って貰いたいだけで、自分がこうと信じてなろうとしている「良い医者」像が明確にあるわけじゃないんだよね。目標が漠然としているから、自分が具体的に何をしたらいいのかわからない。とりあえず仕事としてやらなければいけないことはこなすけれど、それは患者を助けるためではなく自分の評価をあげるため。
はい、こういう人、たくさんいます。たぶん私もその一人でしょう。ここまでなら別に文句はないんです。魅力もないけど。
映画としても人としても最低なのは、このあとマーティンが保身のためにすることなすこと。なんちゅーか、悪を極めるならまだしも、単に卑怯なだけなんだもん。「卑劣!」といってやりたくなるだけの覇気もない。
いえ、こういう人もたくさんいると思うんです。まあ、たとえば凄腕のセールスマンと思われていた人が実はその品物を自分で買っていて、そのために借金が膨らんで二進も三進もいかなくなって横領して、それが同僚にばれたので口止めのためにお金を払ってとか、いるじゃないですか、自分の体面を保つために必死になる人って。そういうメンツとか体裁を取り繕い続けたい気持ちは私だってよ~く理解できますよ。
それはよ~くわかるんだけど、でもそれ映画で見させられてどうなのって思いますよね。
おもしろいわけないじゃん!
映画としてそれなりにサスペンスフルに撮ってますよ、「グッド・ドクター」。完成度でいえばたぶん「ヘイヴン」よりマシですよ。それでも魅力でいえば「ヘイヴン」の方が数段上。荒削りではあったけれど登場人物達に魅力はあったし、それなりに感情移入もできました。
でもグッド・ドクターのマーティンには全く感情移入できないんだもんね。感情の動きを理解できるのと感情移入は別物ですから。マーティンの気持ちは理解できるけれどそこにシンパシーは感じないってことです。まずキャラクターとして、マーティンには魅力がなさすぎる。オーランド・ブルームが演じているというのにマーティンのこの魅力のなさは彼の演技力の賜かもしれないけれど、そんな魅力に欠ける主役の映画なんか見たって誰がおもしろいもんか!
「グッド・ドクター」の脚本家と監督と、そして脚本を読んで出演を決めたというオーランドには、このマーティンが魅力的に思えたんでしょうか? 「グッド・ドクター」というタイトルと相反する主役の存在がシニカルだから批評家受けすると思った? 普通の観客がこの作品を見ておもしろいと思うかどうかなんかはどうでもよかったのかな? いや、それとも第二のマーティン・スコセッシを目指したのか。それは見事に失敗したと思うけど。
何が失敗かって、この作品のような主人公が他人に見つかっては困る事をしていて、それがバレるんじゃないかとハラハラドキドキさせてサスペンスを盛り上げていく手法って、観客が主人公に感情移入してないと全然成り立たないから。自分が感情的にのめりこんでいる登場人物だからこそ、見つかったらどうしよう、バレたらどうなるんだろうってサスペンスを感じるわけで、魅力に欠けるどうでもいい登場人物なんか見つかろうが捕まろうが観客は痛くも痒くもないからハラハラドキドキもしないもの。このタイプのサスペンスで私が最も感情移入して見た映画は「ワルキューレ」で、わたくしトム・クルーズの演じる役にのめりこんだあまり高まる緊張感に耐えかねて吐きそうになりました。「グッド・ドクター」の監督は第二のブライアン・シンガーにもなり損ねたわね。
そもそも、この映画の中でマーティンがやってることが杜撰すぎるというのも難なのよ。日頃CSI見慣れてるこちらとしては「あ~あ」とか「あら~」とか、さらには「あちゃー」としか思えない事平気でやってくれてますからねー。
そういう意味ではどんでん返しともいえる結末ではありました。
本当に、この監督は何考えてこんな映画撮ったんでしょ。
これ、よくある「失敗を乗り越えて大人になる」タイプの作品ではないです。撮った本人がそう考えているんだとしたら大間違いです。「リプリー」の様な作品にしたかったのかもしれないけれど、あれとも全然違う。何故ならば、マット・デイモンの演じたリプリーには自分がこうなりたいという理想があって、そのためにきっちりたてた計画というのがあったわけですから。その場しのぎで先の事を考えてないマーティンとはまるで違います。この監督には第二のアンソニー・ミンゲラも無理ですね。
それにしてもオーランドもマーティンの何が気に入ってこんな役を受けたやら。インディーズ系に出演するんでもせめてジョッシュ・ハートネットぐらいのエッジが効いた役選びをしてくれればいいのに。