たとえばこれがオーリと同じぐらいの美貌と演技力をもってるけどまだ全然売れてない俳優さんが主演したとして、それを平日に深夜なんかにひっそりとWOWOWでやってるのを作品に対する事前情報が何もないまま見たならば、それはちょっと評価が変わったかもしれないんです。少なくともそういう風に見たなら「意外性」だけはあったはずだから。
私が思うに、この「グッド・ドクター」のおもしろさって、「意外性」にこそあるのですよ。だから脚本でいきなり読んだのなら、それなりにおもしろかったかもしれないとも思うんですよね。「えっ、こんな人の良さそうでハンサムな主役のドクターがこんなことするの?!」っていうね、そういう驚き。
でもオーランドが主演に決まった時点でそのストーリーはほとんどが世に出ちゃったし、日本公開が決まるとネットでもチラシでも雑誌でも新聞でも彼が何をするのかが全部書かれちゃった。そのために映画の中で感じるべき「意外性」が全部なくなっちゃって、結果、サスペンスも何も感じられなくなって、ただの退屈な作品に成り果ててしまったのです。
もっともね、その「意外性」っていうのもキャラクターに備わっている属性ではないので、どうしても弱くなるのよね。この作品の中で何が意外なのかというと、そういうキャラクターが主役であるという、ほとんどその一点につきるようなものだから。
こういうキャラクターそのものは、昔の刑事ドラマなんかでよく見ました。主役の刑事さんが捕まえるべき犯人としてね。最近のドラマでは犯人像も多岐にわたってるし、犯人の人物をもっと掘り下げたりしてるので、かえってこういうなし崩し的に犯行に走った小市民タイプの犯人は少ないかもしれないです。でも普通の人が切羽詰まって犯罪に手を染めるとこうなっていくというパターンをそのまま踏襲してますよ、このマーティンは。こういう人を主役に据えてそれで映画一本撮れるというのが現代なのね。確かに独創的かもしれない。
でも実は似たような境遇のキャラクターはいるもので、それが「ディパーテッド」でマット君が演じたコリンという役。マーティン・スコセッシの名前を出したのはそれが頭にあったからです。「ディパーテッド」ではもう一人の主役であるレオ君の方に焦点があたりがちだったし、他にも名優がいっぱい出てたのでマット君の影はちょっと薄かったのだけど、その影の薄さも含めて「グッド・ドクター」のマーティンに通じるものがあるのよね。
「ディパーテッド」ではコリンというキャラクターは自分が負うべき責任をきちんととって退場します。この映画自体の結末の付け方はともかくとして、少なくともコリンに対して観客が抱いていたもやもやとした気持ちは一掃されて終わります。この辺やっぱりこう、大作だけに観客への配慮をわきまえているというか、ある程度型にはまるのもやむなしというか、ひとつのパターンにはまってはいるわけですよね。
ところが「グッド・ドクター」はインディーズなのでそんなパターンにはめる必要はなかったらしく、それは見ようによっては新鮮かもしれないけれど、そう受け留められるとしてもそれは主役のマーティンに感情移入できてこそ。
私はできませんでしたね~。
親類縁者の中には医者とか歯医者とか看護士とかいますので、そういう職業に携わっている人々もごくごく普通の人間だということは重々承知してますよ。だから医者に聖職者の如くあれというつもりもないんです。それでも「グッド・ドクター」でマーティンのしたことは許せない。職業に関わらず、人間として最低のことです。どう考えても弁護の余地はない。
この映画が訴えてることって何なんでしょう。
”人間、内面なんて関係ない。自分がそのように振る舞い、周囲がそれを認めてくれさえすれば、その職業のエキスパート(「グッド・ドクター」)になれる。例え内容が伴わなくても、誰を踏み台にしようとも、気づかれなければ問題ない。”
ってことなんでしょうか?
今はそれが大手を振ってまかり通ってしまう世の中なんでしょうか。
世も末だから、そうなんでしょうね。
ちょっと絶望的というか、厭世的気分に落ち込んでしまう作品。
そんなの見たって嬉しくないの一言です。