アメリカの映画やドラマなどでよくつかわれる決まり文句に
「世の中の人間は2種類に分けられる」
というのがある。
大抵はそのあとに
「~する人間としない人間だ」
とつくのだが、私に言わせるとその「~」の部分は「映画を見る」になる。

そう、世の中には積極的に映画を見に行く人間と、そうじゃない人間に分けられるのだ。

休みだから、デートだから、家族サービスだからと、時間をつぶしに映画館に入る人々は「映画を見る人間」ではない。彼らにとって映画はただ暇つぶしに見るもの。見ておもしろければそれでよい。スクリーンに流れる映像は自分とは完全に別の世界のものだ。

だが積極的に映画を見に行く人間にとって、銀幕は自分の人生の一部である。
彼らはそこに自分自身を重ね合わせ、登場人物に感情移入し、世界を2次元に移し時代を超越してその中で探し回る。

何を?

自分に似た人をだ。

或いは自分の愛した人かもしれない。

自分が暮らす世界には発見できなかった人物を、彼らは映像の中に探し求め、そして見つける。常にではないけれど、ある一定の確率をもって、確実に。

そして自分が世界に一人きりの変わり者ではないと知って安心するのだ。

そうだ世界のどこかには自分と同じように考え、感じる人がいるではないか。そういう人達がこうして映画を通して自分たちに訴えかけているではないか、「私はここにいる」と。

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」を見ると、その声が聞こえてくる。

たった一人の理解者であった父親を失った少年の、絶対的な孤独な叫び。
彼が抱え込んでいるものは喪失感ではあるけれど、それは決してぽっかりあいた虚ろな穴なのではない。空虚とは無縁の、ずっしりとした重量を備え、自分自身を押しつぶす程の威圧感に満ちた、孤独という名の恐怖なのだ。自分の心の声は、もう決して誰の耳にも届かないのではないかという考えは、息ができなくなるほど恐ろしい。

だから少年はその場から逃げ出す。
自分自身の考えをその場に置き去りにできるものかのように。
走っている間は追いついて来られないだろうと言わんばかりに。

その姿は「ものすごく~」でも、同じ監督の「リトル・ダンサー」でも、ほとんど変わらないと思った。

少年が、自分は周囲の人々からは理解を得られないと思うその理由は違っても、抱え込む感情自体は同じである。理解者を得られなければ人は孤独だ。家庭で庇護を受けなければならない年頃で、家族にさえ分かって貰えないという状況では孤立感は深まるばかりである。


さて、そこで、また人は2種類に分けられる。
映画を見に行く人になるか、そうではないか。

映画を見る、或いは本を読む。アニメでもマンガでもいいけれど、そこに別の世界を探せるか、どうか。その作品世界の中に自分と同じような人間を見つけられるか否か。

それは別にドラマの登場人物である必要はない。
その作品の脚本家や監督や、携わった全ての人達のあらゆる表現の中に一つでも自分と共通するものを見出せればそれでいいのだ。
音楽でも、衣装でも、美術でも、はたまたカメラワークでもほんのちょっとのジョークでも。
ごく僅かでも「ああ、これは私と同じ」と感じられる部分があったなら、そこにいくばくかでも自分の思いを重ねることができる人がいるという証拠である。それはこの広い世界に自分がたった一人ではないという証明になる。映画は本やマンガに比べて携わっている人が桁違いに多いので一本見るだけで様々な観点から自分に似た人を探せるのが利点なのだ。

人間、自己表現の形はそれぞれ違うので、自分の表現方法が周囲に理解されない不運な子どもは少なからず存在する。そういう子ども達が映画の中に自分と同じ存在を見つけたら、そのままとりこになるだろう。そして自分も映画の仕事に携わるようになって、かつて自分が受けたメッセージを今度は伝える側になるのだ。大丈夫、安心して君は一人じゃないからと。

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」を見た時、「リトルダンサー」を思い出して、監督が子どもの頃の自分に向けたそんなメッセージを聞いたような気がした。

この作品は惜しくもオスカーはとれなかったけれど、今回のアカデミー授賞式で受賞の映画愛にあふれるスピーチを聞いていたらそのことを思い出した。映画に出会ったおかげで人生を救われた人達が、何人そこにいたことか。