ミステリーとしての「ティンカー~」の特徴は、手がかりが「ある」ものじゃなくて「ない」ものという点かな? それぞれ違う資料の中から「欠けているもの」を探し出し、それら全てが「ない」ことに矛盾しない理由を推理することで解答に至るんだけど、「ない」ことが全部出揃うまでが大変なんだよね。
それで男社会すぎてキャラの誰にも感情移入できなかったので、誰がもぐらでもいいやと思ってただダラダラ読み進めてたので犯人捜しの醍醐味なんざ全く味わわなかったのでした。どのキャラも見事にイヤなヤツばっかりだったので、誰が犯人でも意外性を感じなかったというのもありますね。スミマセン。
このミステリーには謎解き以外にもう一つ仕掛けがありまして、ドラマとしてはそちらの方がおもしろいのです。というのはそれが深く人間の心理に切り込んでくるものだからですね。
理性というか、論理的に思考を展開した結果導き出された結論を、同じ人の自我が否定する。自我は感情によって左右され、先入観によって判断を曇らされるので、例え心の底では論理的帰結によって「コイツが犯人だ」と思っていても、「そんなことない」と表層意識が全力でその否定に努めるわけですよ。
例えば、あからさまに悪い相手にひっかかって金銭を貢いでいる人がいたとして、「アイツは悪いヤツだからやめなさい」と注意したところで、「そんな事ない。あの人は本当はいい人だ。アンタが知らないだけだ」って否定されるのがオチじゃないですか。その注意するのが「理性」で耳傾けないのが「自我」。
論理的思考って一種のツールだから、自我と別に存在してるんですよ。潜在意識下でほっといても勝手に稼働してる。集合体としての意識を一本に統括してまとめてるのが「自我」だけど、それが一本筋を通してるとは限らないんだよね。矛盾点を追求しない事によって、矛盾する事象を抱え込んでたりする。
でも本来人間って矛盾した状態でいることに長く耐えられないのね。耐えられないんだけど、矛盾した状態でいることが本人にとって都合がいい場合は、だから矛盾点をしつこく追求してくる論理的思考の方を捨てちゃう。そうやって都合の悪い部分には耳を貸さず目も向けずに生きてゆく。その方が楽だから。
「ティンカー、テイラー、ソルジャ、スパイ」は長年そうやって生きてきたスマイリーが、自分の思い込みや先入観を一枚ずつ剥がしていく過程をつぶさに描いているわけです。自我が泣いても騒いでも有無を言わせず事実を受け入れるように、「あるべきなのにない」事を証拠につみあげてね。
だから「裏切りのサーカス」でスマイリーを演じたゲイリー・オールドマンからはほとんど自我を感じない。無私の状態になって、論理的思考の邪魔をするものを完全に退けることによって視界がクリアになって、それで初めて「もぐら」がはっきりと見えるようになるという原作を見事に反映してるわけです。
原作でも映画でも、最後までスマイリーの目を曇らせているのはアンという美しい彼の妻の存在。スマイリーはほとんど崇拝せんばかりにアンを愛しているのだけど、その愛は彼に苦痛しかもたらさない。アンは作品中では実体が無いに等しくて、ほとんどスマイリーの観念上の存在でしかない。
それはどうしてかなっと考えたら、アンという人物が女性としての肉体を備えて登場したら、男性としての肉体を持つスマイリーは自我どころか本能の段階でそっちに反応してしまうからだろうと。一般的な男性が理性を清明なままに保つには、女性の肉体が側にあっちゃあいけないのね。修道院状態で沈思黙考。
まあ厳密には小説でも映画でも肉体を備えた女性がスマイリーのまわりにいないわけじゃないんですが、要するに性的対象ではないと。で、妻がいることによってスマイリーはストレート宣言してるので、まわりにどんなに魅力的な男性がいても性的対象にはなり得ないと。何の事やら。
「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」を読んでてどうしてものめりこめなかったのは、恐らくアンの美貌に恋い焦がれながらも肉体的には一線を画してしまったスマイリーに対し、女性として疎外感を受けちゃったからかもしれません。ってゆーか、物足りないのよ、アンタ! みたいな(失敬!)
ところが「裏切りのサーカス」を見ると、原作において私が物足りなさを感じた部分というのは、単に自分の読み取り不足だったんだということがわかったんですね~。ジョン・ル・カレさん、ごめんなさい。英国の方向いて土下座してあやまります。