さて、シリーズの3と4も同じ新文芸座のスクリーンで見直したわけですが、こうやってまとめて1から4まで見ると「シリーズ」と銘打たれていても監督によって全くテイストが違う事を如実に感じましたね。それぞれの監督のテーマでもあるのでしょうが、ブライアン・デ・パルマだとやはりそれは「裏切り」だし、ジョン・ウーでは「男と男」だと思うのですよ。


「M:i:Ⅲ」の監督はJ・J・エイブラムスですが、これは映画では彼の第一回監督作品なので、いっちゃあなんですがあんまり成功してるとは思えないんですよね。二作目の「スタートレック」になるとずっとこなれていておもしろくなっていたので、これはやっぱりエイブラムスが「LOST」みたいな群像劇を得意とする監督であるせいかと思うのです。だとすると「M:i:Ⅲ」だとチームのメンバーが少なすぎますもんね。一応、かつてないぐらいにIMFの組織のメンバーをたくさん登場させて、その中でイーサン・ハントが翻弄されるようなストーリーになってはいるんですが、組織そのものの全体像が判然としないために一つのチームとしてまとまって見えないんですよ。やっぱりイーサンのチームというと、彼と一緒にミッションをこなすメンバーでしかないわけで、それが3~4人しかいないと仲間割れなんかしてたらミッションが遂行できないので、どうしても結束が固くならざるを得ない。そうすると本来エイブラムスが得意とする大勢のメンバーの中でのそれぞれの葛藤というのが表現できない。そこが失敗の原因なんじゃないかと思うわけです。


それともう一つ、「M:i:Ⅲ」にのめりこめないのは悪役がつまらないからなんですよね。


いや、悪役演じたフィリップ・シーモア・ホフマンは文句なしの名優ですよ。彼の悪逆非道っぷりはシリーズ屈指かもしれません。ただね、それ以上のものがないんですよ。理由もなく、ただ悪いだけなの、彼の存在って。デイヴィアンという名前はあるけれど、それまで何をして生きてきたのかは全くわからないで、ただ悪いヤツというだけなんだよね。彼が悪いことする動機がどこにあるのか、見ている側はそれがわからないので全然感情移入できないんですよ。もちろん一番の動機は「金のため」なんでしょうが、それはシリーズの1でも2でも同じだったんですよね。ただ、1ではその裏に組織への復讐という思いが潜んでいるし、2では同僚に対する嫉妬ややっかみという非常に生々しい感情が息づいている。けれど3ではそういった人間的な感情を感じないんですよ。確かにデイヴィアンはイーサン・ハントに対して腹いせ的な暴力をふるいますが、それも機械的でね、2のアンブローズが見せたようなイーサンに対する復讐の喜びというのは全然ない。デイヴィアンの場合は、単にやられたからやり返さなければ気が済まないというだけで、それをすましてしまえばもうそれ以上相手への興味もなくしてしまうんですよね。だから相手の最後を自分でみとろうともしない。


それだと、なんか、つまらないです、見ていて。まあそういうビジネスライクな人が現代社会では一番の悪党なのかもしれませんけどね、「ビジネス」という名目で金を稼ぐために他の人を踏み台にして全く平気な人達ね。でもアクション映画の悪役には適してないです、自分が悪いことをしているという認識がないから。


デイヴィアンが欲しがっている「ラビットフット」にしても、それで世界をどうこうしようというのではないんですよね。単に大金と引き替えにしたいだけなので、「ラビットフット」そのものに対する執着もない。イーサンが首尾良く手に入れてくれればそれでよし、手に入れられなければ彼の妻を殺して、それでおしまい。どうもそのイーサンとデイヴィアンを比べた時の温度差がね、見ていてしっくりこないというかのめりこめない部分なんですよね。



次に何が起こるか分からない、という意味では本当にハラハラドキドキする映画なんですが、なんかちょっと惜しいな、物足りないな、という思いが残る「M:i:Ⅲ」ではありました。