「北のカナリアたち」 公式サイト
見ている内にうんざりしてきた作品。
理由は前に書いた記事で五つばかり挙げてありますが、まず一番にリアリティーを全く感じられなかったというのが大きいです。
タイトルに「北のカナリアたち」とうたってるくせに、登場人物達に「北」らしさがまるで見あたらないんだもんね。
この「北」は「北海道」の「北」。
生まれも育ちも北海道の私にとって「北のカナリア」は、何を隠そう全く北海道らしさを感じられない作品だったのです。そりゃー評価も低くなるって。
「北」ってね、寒いんですよ。
そして道産子ってね、なまってるの。
本人は標準語を喋ってると信じてるけど、どっこい独特の方言もあるし第一イントネーションが違う。
大泉洋さんっているでしょ。
彼の喋り方って、テレビで聞いてると独特ですよね。
でも北海道に行ったら大体みんなあの調子で喋ってますから!
もちろん地域によって細かい違いはあるんですが、大まかに言うとあんな感じ。
一言で表すと、語尾が重い!
「さ~」とか「しょ~」とか「だ~」とか、重くて長い。
けれどそんな喋り方してる登場人物、だ~れもいなかったもんね! あり得んつーの!!!
そりゃもちろん北海道の離島にだってテレビ電波は届くから標準語を耳で覚える事はできるけど、ふつーは親が喋ってる言葉やイントネーションを子どもはそのまま受け継ぐんだよね~。大泉洋さん見てればわかるっしょ(←北海道弁)。
そう、そしてこのように北海道弁は語尾やら語頭やら適当にはしょった言葉がまかり通っております。「そうしたら」が「したら」、「でしょ?」が「っしょ?」になるのが普通。また「じゃあ」の代わりに使われる「したっけ」という言葉もあって接続詞になったり軽い別れの挨拶になったりと頻繁に使われます。「したら」「したっけ」「っしょ」を使わない北海道人を私は知らない。
だ~け~ど~、これら三つの言葉が「北のカナリア」では一切出てこなかった。「北の国から」みたいにてんこ盛りで使えとは言わないけど、住民の喋る言葉に「したら」の出てこない北海道なんて北海道じゃないわよ。まあこの映画で舞台となってる麗端島は北海道じゃないのかもしれないけどさ(ひょっとしてロシア領か? いつの間に!)
まあ、百歩譲ってそれはいいとして(もしかしたら麗端島あげて「東京と同じ言葉を喋りましょう」運動とかずっとやってたのかもしれないし、或いは東京以南からの移住者がやたら多い町なのかもしれないし)、それでも絶対あり得ない北海道の情景として、メインキャラ全員が真冬の吹雪の中で帽子も被らず耳を出してたこと。
北海道の最北端の離島の真冬の吹雪の中でだよ?
絶対ないから、それ!
耳、凍傷になるって。
ってゆーか、それ以前に寒くて冷たくていたたまれないので何とか耳を覆おうとしますね、人間。だから「耳あて」ってのが開発されたんだよ、あれはファッションじゃないんだよ、寒い地域じゃ必需品なんだよ、○○!(←お好きな二字の讒謗をお入れ下さい)。特に専用の物がなくても帽子があれば帽子で、マフラーがあればマフラーで、それさえなければせめて髪が長ければ髪を使ってさえ耳の防寒に努めるのが普通です。関東だって吹きっさらしの風の中に長時間いたら耳真っ赤になって霜焼けになるわ。北海道の最北端で風の吹きすさぶ中で耳出してるなんて、決してあり得ないわよ。
さらに言うなら、そんな環境下で長々とお喋りなんかしませんわ。とっとと暖かい家の中に駆け込んで、暖房器具の前に陣取って熱いお茶でもすすりながら「やー、よく降るね~」とか言いながらぬくぬくだべりますわよ。北海道人、可能な限り寒い環境に居たくないですから。
だって耳だけじゃなくて、
足だって冷たいんだよ?!
防寒シューズ履いてたって、長時間雪道にいたら足は冷たくなるし身体は冷えるの!
北海道人にとって寒さは凍死に直結する切実な問題なのです。北の自然はなめたらいかんのです。
そ~れ~を~「北のカナリア」は分かってない!
「北」を掲げながら北の事が何も分かってない人が映画を作ってる。私の腹立ちの原因はここにあります。も少しちゃんとリサーチしてから作れよ!
気の毒なのは俳優さん達で、ロケ現場でどんなに寒くても常に耳と頭全開で演技させられてました。彼らの頭上には常に雪が降り注いでいるというのに。大変だったでしょうね。
彼らの衣装は現地調達だったとみえ、全員フードがしっかりついたコートを着ているのですよ。それなのに、降りしきる雪の中、誰もそのフードを被らない。不自然極まりない情景なんですが、その事に気づく人が現場に誰もいなかったのか、それとも「映画のウソ」としてまかり通してしまったのか。
それにしても、会話が主体の作品なのに、ほとんど全編にわたって吹雪の戸外で話をさせるというのも不自然ですよね。なんでいちいち寒い外で話すの? 外で会話しなきゃいけないから、厳冬の中マフラーで口を覆うこともできず帽子で耳を隠すこともできないという妙ちくりんな状況が生じるのにさ。
登場人物のそれぞれが胸に抱えた秘密を打ち明けるから、人のいない真冬の外が絵になると思ったのかもしれないけど、寒いと口もかじかむから上手く喋れないよ? しかも吹雪いてると風の音がうるさいから(周囲の木の枝が鳴るんだけどね)、相手の耳まで自分の言葉を届けるために大きな声出さなきゃいけないよ?
この辺になってくると、理由二番目の脚本がヘボという点に関わってきますね。
「危険なメソッド」は舞台劇が元で会話主体で、しかも精神分析で登場人物皆が胸の内を明かすという内容の脚本でしたが、実にダイナミックでそして人の心の奥底に迫る優れた作品でしたからね。室内で話しているだけでも、監督次第で幾らでもスリリングにできるという事なのかもしれませんが。
「北のカナリア」の映像は、とにかく吉永小百合さんが教え子の誰か一人と並んで歩きながら過去を回想しつつ打ち明け話をしたり聞いたりしてるばっかりの、極めて変化に乏しいものでした。その分風景で変化をつけ、「歩く」という横(水平)の動きばかりで単調にならないように雪を降らすという縦(垂直)の動きをつけたんでしょうが、どれだけ自然が雄大で利尻富士が美しかろうと、登場人物達の動きのワンパターンさを誤魔化せるものではないのですよ。クライマックスでは人物も垂直方向に移動しますけどね、そこに至るまでが長すぎる。
これ、撮影が「劒岳 点の記 」の監督もなさった著名な映画カメラマンの木村大作さんでね、だから利尻富士を始めとして北海道の風景を撮影した映像はとても美しいの。でも、なんか、山だけ浮いて美しく感じるというか、人物との接点が乏しいんだよね。その美しい景色の中で登場人物は何をしているかというと、延々と20年前の過去の問題一つにこだわっているわけです。
これ、メディアを問わず日本の作品に多いですが、何か一つのできごとだけにこだわって一生をおくるっていうの、ワリと生き方として美しいみたいに語られてますよね。一途であるとか、ひたむきであるとか、その人一筋であるとか。
それ、別に否定するつもりはありませんが、実際の人生はそうはいかないだろうとも思うわけですよ。小説、コミック、アニメといった人間の実体を見ずにすむメディアならばまだいいのですが、ドラマや映画で実在の俳優さん達を目にするとやっぱり違和感大きいです。
「20年前のあのことだけがずっと胸にあって……」なんて、台詞がしょっちゅう出てくるわけですが、その20年間が子役が映画の中でその出来事を演じた5分前ぐらいにしか思えない。俳優さん達はいかにも20年分の重荷を抱えて生きてきましたってつらそうな顔してますけど、20年も人生やってたら他にもっといろんな経験しててもいいと思うんですよね。なんかこう、物語上必要な台詞を語るためだけに作られたキャラってだけで、そこに人間としてのリアリティーを感じないのですよ。一つの出来事について語る言い方が全員同じ、みたいな。北海道弁がどうこう以前にキャラクターが生きてない、つまらない脚本だなと見ていてうんざりしましたよ。
脚本以前に原作の問題かもしれませんが、ちょっとネタバレに関わるので詳しくはかけないのですが、この映画、婚外の恋、いわゆる不倫の愛を美化しすぎなんです。
不倫の愛を非難するつもりはありません。恋愛は結婚制度に縛られていませんからね。でもこの作品、それを美化しすぎ。いや、美化というよりむしろ開き直り? 「愛してしまったものは仕方がない」の言葉で、まるでそれが純愛の極致であるかのように描いてるんですよ。それも複数。ってゆーか、映画の中でメインで取り上げられる恋愛全部。
幾らなんでもやりすぎでしょ!
こういうの見てると、作者が自分のやった事(つまりこの場合は不倫ね)をひたすら正当化したくて書いたんじゃないかね~って気がしてきます。自分のやったことは確かに悪い事かもしれないけれどでもあれは仕方がなかったのよ的な、反省してるようで全く反省してない人の言い分ですね。
人にはいろんな事情があって、美しい純愛が形式的には不倫にあたるという場合も確かにあるでしょう。「北のカナリア」ではその様々な例をそれぞれのやむにやまれぬ事情と美しい愛の形として見せ、それらを「好きになってしまったら仕方がない」の一言で正当化しちゃってるんですよね。
不倫が一つならそれは個人レベルの問題ですみますが、映画の中の恋愛が全部不倫で、しかも吉永小百合さんが説得力のある言葉で「好きになったら仕方がない」とか言うもんですから、まるで不倫というもの全てが美化され正当化されたような気になってしまいます。
しかしね、どれだけ小百合さんの台詞に説得力があろうとも、不倫は不倫ですよ。そこ、間違っちゃいけない。不倫というものは当事者の「こんなこと続けていてはいけない。でもやめることもできない」という激しい苦悩と葛藤がセットでなければ見ている方には美しさが感じられないものなのです。
例えば自分のまわりに不倫してる人がいて、その当事者が自分達を悲恋のカップルになぞらえて「美しいわ」とそのシチュエーションに酔ってるのを見たらどう思います?
よっぽどの親友じゃない限り、「アホか」と思うでしょ?
親友だって「アホだ」と思うよ、私なら。不倫している事にじゃなくて、不倫を美化して正当化していることに。だって図々しいじゃん。人様の夫か妻を寝とってるっていうのにさ!
「北のカナリア」って、本来「アホか!」と思うような話を吉永小百合さんの起用によって無理矢理説得力もたせようとした作品なんですよ。小百合さんが演じてさえもその役は偽善的にしか見えなかったですが。
「危険なメソッド」は共通した題材を扱っていましたが、偽善者はその偽善を暴かれ、恥と葛藤にまみれて苦しみ悩んでました。
そうなって初めて、見てる方は納得し、その作品に「美」を見出すのですよ。不倫してる当事者が自分を美化したらダメだっつの!
あ、え~と、「北のカナリア」の分かりやすいテーマは「不倫の正当化」ではなくて「つらいことをひきずって生きる人生のあり方」らしいです、一応。この点に関してはこの後に見た「黄金を抱いて翔べ」の方がテーマの扱い方がずっと上手でしたね。
それにしても吉永小百合さん、年齢不詳に見えるのはいいのだけど、さすがに若作りしすぎたのか、全然美しく見えなかった。「おとうと」では蒼井優ちゃんと美人母子だったのに。まあ全体的に風景の方が人物よりもずっと美しく撮って貰ってたようで、私には懐かしさも手伝ってついつい背景ばかりに目がいく映画ではありました。