「クロユリ団地」、実は文学としての怪談の血を色濃く受け継ぐ作品でもあります。タイトル書くとそのままネタバレになるので、下げますね。


雨月物語 (ちくま学芸文庫)/上田 秋成
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はい、具体的には「雨月物語」から「吉備津の釜」、「怪談」から「耳なし芳一」になりますね。両方とも日本の怪談話として大変有名でございます。「クロユリ団地」ではストーリーの大まかなところを「芳一」から、クライマックスのシチュエーショを「釜」からヒントを得ているようです。両作品とも本来の主人公は男性なのですが、舞台を現代にするに伴いヒロインへと変更されました。ホラー映画ではヒロインの絶叫が何より大事ですからね。


このヒロイン役が前田敦子。いわば耳なし芳一の役どころ(目は見えます。必要以上に)。

彼女に取り憑くミノルが、両作品における怨霊にあたります。

で、最後に怨霊に奪われる芳一の耳、これが成宮寛貴。クライマックスにおいては「吉備津の釜」の主人公の役回りもするという、どっちに転んでも悲惨な結末しか待ち受けていないという大変気の毒な立場でございます。設定上でそれに価する罪を犯しているとは私には思えないんですけどね。


もっともそれを言うならミノルも似たようなものです。どう考えたって5歳や6歳の子どもには「怨霊」は荷が勝ちすぎてるでしょうよ。「怨霊」というのは呪った相手をとり殺し、さらにはその一族をも根絶やしにしようというぐらいの激しい恨み辛みを抱いて始めてなれるもののはず。それがどれだけ悲惨な死に方であろうが、ミノルのように関係者全員がまぬけ時空に入り込んだようなうっかりミスの連続が原因だったら、誰か特定の人に憎しみをぶつけるような状況じゃないでしょうよ。平和な日本で大勢の友達と楽しくかくれんぼできるような暮らしぶりだったなら、その短い生涯の中で激しい復讐心を燃やす程のできごとがあったとも思えないですし。


だからミノルは怨霊というよりむしろ悪霊なんですよね。ただの幽霊にしてはやることが悪辣なので、「悪霊」扱い。「霊」の読み方も「レイ」から「リョウ」に格上げ(?)されておどろおどろしくなりし。


では何故ミノルの霊が不特定多数に祟りを及ぼすような悪霊になったのかというと、結局のところ不本意な死そのものにしか理由が求められないんですよね。死んだこと自体が悔しいから、まだ生きてる人全員が恨めしい。そこに理屈はありません。不慮の死イコール悪霊化、みたいな図式。それじゃあアンタ日本全土が今や悪霊で埋まっとるわ!


つまり、私にはこの「不慮の死イコール悪霊化」の図式が理解できないんです。この図式が理解できない限り、「クロユリ団地」の恐さって決して分からないんでしょうね。


さらにいえば「不慮の死イコール悪霊化」の前提である「死者は生者を恨んでいる」という感覚も分からないんですよ。「吉備津の釜」の磯良のように夫にひどい仕打ちを受けたとか明確な理由があってなら分かりますよ。でもそうじゃなくて、「死者は自分が死んだことが悔しいから生き残った人に恨みを抱く」といった感覚ね。そこには「死」がただひたすら忌むべきものであるという恐れだけがあるようです。仏教やキリスト教によって導入された死後の世界である極楽も天国も、転生輪廻の思想さえもすでに失われた世界。だったら死=無であると思えばいいのに、それはイヤなのね。神は信じてないくせに霊だけは信じていたいという日本人の漠然とした思いの反映なのでしょうか。


それが如実に出ているのがクライマックスのシーン。

ヒロインの心を挫こうとミノルが見せる幻覚という設定なのですが、家族旅行で乗ったバスが事故にあってヒロイン一人を残して死んでしまった家族が立ち現れて彼女をなじるのですね。「私達はみんな死んでしまったのに、何故あんだだけが生きのびてるの」って。


その旅行に行こうと強く言い張ったのが幼い日のヒロインだったので、彼女が家族の死に責任を感じているという設定があるのですが、けれど事故の原因はバス運転手にあるし、彼女だって大怪我をして九死に一生を得ているのですよ。両親や弟の死が全て自分のせいであると思う必要はないはずです。


確かにこういう事故の場合、一人だけ生き残った人が強く責任を感じ「自分も死ぬべきだった」と思い込む精神状態におちこむことはありますよ。でも「クロユリ団地」のヒロインの場合そうではなく、ただただ「私が悪い、私の責任」と自分を責めてるだけなんです。


それで、自分はひとりぼっちだというさみしい心がミノルにつけ込まれる原因となったというのですが、その時点で家族が死んでから10年ぐらいたってるんですよ? その10年だって一人で生きてたわけじゃなく、おじさん夫婦に引き取られて我が子として慈しまれ、大学進学の際には一人暮らしさえさせて貰ってるんです。バイトしている様子もないから費用は全部育ての親が出してくれてるはず。


それなのに「私はひとりぼっち」だなんて、アンタどんだけ恩知らずよ?! 育ててくれた人の愛情はまるで感じてないのか?!


まあ、そういう身勝手な人間だから先立たれた両親や弟に恨めしそうな顔で「あんたばっかり生きてるなんてズルイ」とののしられるような幻影を見るんでしょう。子どもが生きのびてる事に恨み言を言うなんてどんな親だよ?! もしアタシがそういう状況の親だったら、子どもが一人でも生きててくれることに感謝するわよ。少なくとも自分の血は絶えてないわけだからさ。何考えとんじゃ、このヒロインは。


ヒロイン、確かに不幸な過去を背負ってます。だけど自分の不幸に酔いすぎなんだよね。「自分の一言のせいで家族全員を死に追いやった悪い子」である自分に固執するあまり、他のことが見えてない。


それは耳(しつこいですが成宮君ね)も同じことで、彼は「自分が事故を起こしたせいで婚約者を植物状態にしたロクデナシ」という自己を甘受するあまり、やっぱり自分の中に閉じこもった生活を送っているのです。


そんな二人が知り合っても、そんな二人故に恋愛感情に発展するわけでもなく、それなのに取り憑かれたヒロインに手を貸したというだけでミノルに持って行かれてしまった耳(この場合全身だけど)がとっても可哀相なのでした。うん、まあ、いいよね、それだけ非業の死を遂げたんなら、次に化けて出るのはアンタの番だもんね。


そう考えて見れば、ミノルも自分が死んじゃったことの不満ばかりを溜め込んでそこから一歩も出られないいる自己中な霊なわけですね。


これだけ自己中だと、もはやお祓いすら効かないというのが困りもの。お祓いというのは、一つのセオリーにのっとって行うもの。これこれの準備をしてこれこれの言葉を唱えたら悪い霊は立ち退くという約束事があって初めて効力を発します。それが化学反応のようにきちっと遂行されるためには、霊の方もその現象が発動する世界の摂理の中に組み込まれてなければなりません。摂理の中にある限りは一つの論理体系の元に除霊することが可能ですが、自己中霊の前には摂理も論理も太刀打ちできません。「自分だけの世界」で全てを押し切ってしまうのですから。


祓えもしなけりゃ成仏も期待できない霊って、始末におえないですね……。


そういう厄介なものに取り憑かれないためには、悲劇のヒロインである自分に酔うような非生産的な生き方はやめるべきだと私は思うのですが、別にそれがこの映画のテーマというわけでもないんですよね、「クロユリ団地」。なにしろ最後の最後までヒロイン自分の世界に閉じこもったままで、しかも最終的にそれで何だか幸せそうだもん。そんな彼女をひきとりに来るのが育ての父親なんですよ。こんなバカタレで自己中な娘を最後まで情愛に満ちた目で見守ってるなんて奇特な人でございます。


いっそヒロインが恩知らず過ぎて罰があたってこうなったんだと思えるならまだマシでしょうに。


根本に論理を欠いた作品は、どこまでいっても落としどころのないまま、テーマも持たずに漂っているのでありました。何をやりたかったんだか。


これを見たあとで「インポッシブル」見たんですが、正反対の人達がたくさん出ていてスカっとしましたよ。逆境にあっても他人の事を思いやれる人達。人間、自分の不幸に溺れてるばっかりじゃダメなのよ。ねッ!

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