「風立ちぬ」(公式サイト


”この世から消え去る前に留めておきたかった美しいものたち” の主語は宮崎駿になります。

というのも「風立ちぬ」は宮崎駿がこれまで見てき、或いは表現してきた全ての「美しいもの」だと私には思えたので。

ここで描かれている”美しいものたち”は人や物といった具体的なものにとどまらず気象の変化といった目には見えるけれど手にはとれないもの、さらに人の心という目に見えないものにまで範囲が及んでいます。かつては確かに存在していたのに時代の変化によって失われてしまった多くの「美」を、宮崎駿は「風立ちぬ」というアニメ―ションに描き入れ、再び命を与えたのです。

それは一度「となりのトトロ」でやったことではありますが、「風立ちぬ」では親子の情愛に変えて男女の恋愛を正面から描いたことが新しいと言えましょう。その純愛の美しさも、今の日本からは消えてなくなりつつあるものですから。


しかしその純愛の物語も「風立ちぬ」では淡々と描かれています(だからこそより美しいのかもしれませんが)。震災や戦争といった暗い背景もさらりと流し、必要以上に思い入れを込めたドラマチックな描写は廃しているのは、実在の人物をモデルにしているせいかもしれませんが、それよりもこの映画で描きたかったのはストーリーではなく「動く絵」そのものだったからではないでしょうか。その中でも最も力を込めて多彩な表現がなされているのが「風」、すなわち「動く空気」なのです。


むろん空気は目には見えませんから、それを表すために布や草や木や雲の見た目の変化、或いは雨や雪が降る様子などが風の吹く方向や強弱を表すために用いられています。むろん音も効果的に使われているのですが、おそらく音がなくてもそこにどんな風が吹いているのか、空気がどう移動しているのかは手に取るようにわかると思います。帽子やパラソルなどが風に飛ばされる勢いや、紙飛行機が宙を舞う軽やかさといった緩急の付け方の自在さはまさに圧巻です。


その空気の動きの中で飛行機の部品が抵抗を受けてたわみ、遂には壊れ、そして空中分解し墜落してゆく。飛行機のイメージは常に落下と手を携えて現れます。重力に打ち勝って飛翔しても、空気抵抗に負けて地に落ちる。だからこの時代の日本の飛行機設計はひたすら空気抵抗を減らすことに心血を注いでいるということがよくわかります。


その空気抵抗を極限まで減らした飛行機こそがこの映画の中で最も美しいもの――零戦なのです。


その美しさはフォルムそのものに表れています。

まるで空を飛ぶ鳥のような自然な美しさ。無駄を徹底的に排除した滑らかな曲線。遠くに小さく描かれている時のたくさんの零戦はまるで渡りをする鳥達のようでもありました。いにしえの時代、漢字が発明された頃に零戦が飛んでいたなら、その形をそのまま一つの表意文字にして表していただろうと思えるほどの単純で完璧なフォルム。もしも零戦の運命を知らなければ、その美しさを手ばなしで称賛することができるのに――。


この映画の中で零戦を開発した堀越二郎はただひたすら美を追究した人物として描かれています。機能美であっても、美は美。ナイフや日本刀に感じるのと同様な美です。問題は如何に完成度を高めるかであって、使い道は関係ないんですよね。ただ、使う人が悪用する可能性は常にある。それを開発者はどこまでわきまえていなければならないのかという問いかけも作品中にしっかりあります。そういう反省も、失われつつあるあるものの一つかもしれないとしたら、大変残念ですが。



「風立ちぬ」には懐かしい風景がたくさん出てきます。自然だけではなく、建物や交通機関、人々の風俗、着物の柄、そして当時の日本人達の立ち居振る舞いや言葉づかい。それらの美しいものたちがこの世から完全に消え去ってしまう前に宮崎駿は作品の中に描き込んでしまいたかったのでしょう。彼が美しいと思う全てがつめこまれた映画、それが「風立ちぬ」。それを見ることができたことを、私は幸せだと思います。