「ジョン・ウィック」のキアヌは劇中では敵を瞬殺銀幕上においては観客を悩殺するわけです。ジョンの何かをふっきったような留まるところを知らない過激なアクションは、最終的には「それ、やりすぎ~!」と笑いさえも誘いますが、とにかく悪役がヤな奴なのでコテンパンにのして貰えば観客も快哉を叫んでスッキリした気分で家へ帰るとというわけなのです。


この凶悪なヴィランがミカエル・ニクヴィスト。

そう、「ミレニアム」三部作ではリスベットを支える保護者ともいえる存在のいい人ミッケを役とはいえそれはそれは心あたたまる人物に描き出した俳優さんです。


それが「ミッション・インポッシブル ゴーストプロトコル」では狂信的なテロリストになって、その冷たい目差しでイーサン・ハント(トム・クルーズ)のみならず彼(トム)を見守る観客の心をも凍らせたものですが、「ジョン・ウィック」ではそれに輪をかけて強烈な悪役像を描出し、今度はその迫力を見る者の記憶に刻みつけました。


これがね~、「MI:4」の時の冷血漢とは違って、妙に人間臭いんですよ。ビジネスとして犯罪を扱う組織の親玉で、仕事上では良心なんかこれっぽっちも持ってないんですが、なんか割と根っこは普通の人なんですよ。連続殺人犯とかの異常者じゃないの。その上何故かちょっと可愛いところもあったりして、観客は彼を憎みきれないんですよね。


そんな魅力的な悪党のミッケ(仮名)と、スクリーンで華麗に動くのを見た瞬間から愛さずにはいられなくなったジョン(キアヌ)が対決にしのぎを削り、お互いどんどんエスカレートしていくわけですから「ジョン・ウィック」はやめられない! キアヌに声援を送りつつ、でもミッケのやることなすことも心ヒソカに注目してるので、劇中タイクツしている暇がないんです。それぞれの俳優さんが一番かっこよく見える役にぴたっとはまってる感じ。


その中で一人だけどうしようもない男がおりまして……これはもうホント、人間のクズです。このクズのせいで事件が起こるので、全てはコイツの責任なんですよ。オメーがも少しまともに生きてたら誰も死んだりしなかったんだよバカ! って感じ。


ところで私この手のクズを映画で立て続けに見まして、心の中で勝手に「三大馬鹿ドラ息子映画」と呼んでおります。「ラン・オールナイト」に「ザ・レイド GOKUDO」、そしてこの「ジョン・ウィック」。三本とも親の威光をカサに着てやりたい放題の一人息子が出て参りまして、彼らが自分勝手にやらなくていいことに手を出した結果主人公が迷惑を被るハメとなり、さらにその結果周囲にやたらめったら人死にが出るという作品なのです。


彼らドラ息子の共通点は、犯罪組織のボスの一人っ子(恐らく)なので甘やかされて育ったこと。長じては親の七光りで自分には恐い物などないと思い込み、馬鹿をやっても許されると己の行動に制御をかけなかったこと。まあ、跡継ぎとしてきちんと躾けなかった親も悪いんですけど、ほら、親、もともと悪人だから。


とはいえそんな人間のクズに迷惑をかけられた方はたまったもんじゃありません。主人公の方はひっそり生きていこうとしてるのに災厄が向こうから足音も高くやってくるんですからね。何にでも我慢には限界があるもので、怒りを爆発させた主人公が死体の山を築く結果となっても、それは最初にトラブルをもたらしたクズが全部悪いのよと観客は思って見ているのです。だからまあ、このクズを演じる俳優さんの責任は重大ですよね。コイツが最低であればある程、観客は無邪気に主人公が敵を斃すのを喜ぶことができるわけですから。


そういう意味ではこの「ジョン・ウィック」のクズは超一流で、これ以上はないというぐらいに卑劣な野郎でした。何をしたかというと――これ、あちこちで紹介されているのですでににネタバレではないと思って書きますけど――ジョンの子犬を殺したんですよ。それも自ら手を下したわけでもなく、キャンキャン吠えてうるさいから「黙らせろ」と手下に命じて。彼にとっては「たかが犬」。子犬を殺すなんて可哀想等と微塵も思ってない。自分の気に障るものだからただ排除する。そうやってジョン・ウィックの底知れぬ恨みをかったんですな。


かくしてジョンは子犬の仇を討つため封印を解き放ち、一度は捨てた過去の自分に戻ってスーツアップするのです。この子犬(デイジー)、ジョンの元に来てまだ一日かそこらだったというのに!


どうです、究極の犬ラブ映画でしょ? 「ジョン・ウィック」。

たかが犬のためにそこまでするか?! とキッカケを作ったドラ息子は心底不思議に思ったことでしょう。


でもたった一日一緒に過ごしただけでも、デイジーはジョンにとって大切な家族です。家族が殺されたのなら、何か行動を起こすのがジョンにとっては当たり前。たとえそれが犬であってもね。


さて前置きが長くなりましたが、実は書きたかったのはここからなんです。

前の記事でご紹介した「犬パシー」、あれが私にはどうして必用なのかまるで理解できなくてね~~~~~。


人間のクズである私にとって、犬は「たかが犬」なんですよ、心の底で。

でも一度でも犬を飼ったことがある人は「犬は家族」と皆言います。

その気持ちを推し量ることは私にもできますが、実は犬にトラウマのある私には「犬は家族」という心を実感として知ることはきっとできないんですね。


だから例えば愛犬家で有名な柴田亜美さんのブログ(こちら )とか読んでても、まるで理解不能。亜美さんにとっては犬は家族でも、失礼ながら私にとってはたかが犬。この温度差って大きいんだろうなと思います。


でも、疑問に思うんですよ。亜美さんはともすれば犬(ペット限定)にとっての幸せはとことん甘やかして贅沢させることみたいにブログに書くんですが、そんなことできるのってある程度のお金持ちだけだと思うんですよ。まあそれは各家庭でのできる範囲でということにしても、飼い主としての正しいあり方は犬の奴隷になってとことんつくしつくすことだ――的な記述が頻発するに及ぶと、そこまでして犬飼いたくねーと思いますもんね、いえ、実際、飼ってないんですけど。


それにですね、甘やかしの贅沢のと言っても、ほとんどが人間側が「私は犬にこれだけお金をかけてるのよ」的自己満足に過ぎないワケじゃじゃないですか。それを本当に犬が喜んでるのかどうかなんて、わからないでしょ?


そこに「犬パシー」が登場したわけですよ。

今までわからなかったことがわかっちゃうかもしれないわけですよ。


私、思いましたね。

今までさんざん飼い犬に贅沢させて、それで犬も喜んでると信じていた人が「犬パシー」を導入し、その結果「全く喜んでない。むしろいやがってる」なんて反応出たらどーすんだと。


「ジョン・ウィック」のジョンを見てると、「犬パシー」がなくても観察することで大体の犬の欲求はかなえてやれるものみたいです。そしてデイジーみたいに頭の良い子犬なら自分の立場を理解してるから躾けも素直に受けるんです(映画の話ですから現実は違うかも)。


犬の祖先であるオオカミは集団生活を営むにおいて厳しい序列社会を形成します。野生において群と種を存続させるための仕組みですが、それは大変機能的に発達していて、自分がその群のどの位置にあるかというのが非常に重要だそうです。子孫である犬にもそれは受け継がれていて、普通の飼い犬は自分をその家族の下から二番目として認識しているという説を聞いたことがあります。


ジョンは一人暮らしだったので、デイジーは来たその日から彼をリーダーと認めたんですね。ジョンは当然飼い主としてその立場を受け入れた。だから二人の関係は幸せだったのだと私は思いました。デイジーに「犬パシー」がついてたら、きっと虹色に光り輝いていたことでしょう。

ジョンの家の庭は広いので、二人はそこを走り回って遊ぶこともできます。犬を飼う暮らしって、こういうのが理想なんでしょうね。


残念ながら日本の住宅事情ではそれは無理な話で、勢いペットとしては室内犬が多くなります。寝食を共にするのでより一層家族愛がふくらみ、我が子のように可愛がるのだと思いますが……そうなった時、ペットの犬は自分の序列がどこにあると思っているのでしょうか? 甘やかされ贅沢三昧で育てられた一人っ子のように、自分が一番エライと思っているのでしょうか? 


それは犬にとってのストレスになると思います。だって自分がリーダーのはずなのに、手下にあたる人間どもは自分の命令を厳守しないんですから。


そういうストレスを「犬パシー」を使うことで検知できれば、それは人と犬双方にとって良い関係を築く素晴らしい道具になると思うんです。


でも、その検知の結果が人間の利害と一致しない場合もあるわけですよ。例えば自分は毎日こんなに可愛い犬服をとっかえひっかえ着せてたのに、肝心の飼い犬の方はちっとも喜んでなかった、むしろ不平たらたらだった……なんて結果が出たら、それは絶対飼い主不機嫌になると思いません? だって間違いなく自分の好意(&お金)を踏みにじられた(&無駄にされた)って気になるでしょうから。


結局、飼い主が「犬が喜ぶ」と思って行っていることと犬の「喜び」が一致しない限り、その人にとっての「犬パシー」の存在意義って無いのではないかと――。喜び勇んで買ったはいいけど、すぐに無用の長物扱いされる恐れが将来的に高いのではないかと説明聞きながら思ってたんですよね、実は。そもそも「犬パシー」を必用とする人って、犬の気持ちが分からない人の場合が多いのでしょうから、尚更。まあ、私は犬を飼ったことがないので、本当のところは分からないわけですが。


しかし「犬パシー」を使ったら使ったで、常に犬のゴキゲンとりをしようと努める飼い主さんも出てくるかもしれないですね。もうそれは「犬パシー」どころか「犬のパシリ」みたいなものですけれど。

犬に限らず、動物の気持ちを知りたいとか意思疎通をはかりたいという意向は人間界にも古くからあるようですが、フィクションならいざしらず現実にそれを遂げようとするのはやめた方がいいと私は思うのです。


だってあなた、食肉用の動物たちの心の声なんざ、絶対聞きたくありませんもん。映画だと馬なんか足を折ったら即安楽死ですけど、あれだってヒヒーンと抗議の声をあげてるんだと思うな。絶対「早く楽にして」とは言ってないと思う。


ペットだってそうですよ。私、上の段落で馬の気持ちを代弁したかのように「早く楽にして」なんて書いてますけど、ペットの大きな役目って実はこれだと思うんです。つまり人間(飼い主)が動物(ペット)に成り代わったつもりで自分の感情を表現すること。すなわちエゴの投影であり、他に仮託して自己表現を行うことですね。


先に紹介した柴田亜美さんのブログなんて、延々これやってますから。ペットを満足させていると信じることで、彼女は自分自身を満足させている。彼女が人生を乗り切っていくためにはそういう癒しが必用で、それを与えてくれる存在だからこそ飼い犬たちを宝のように扱ってるのでしょう(自己投影でもあるので、ペットに贅沢させれば自分も贅沢してる気になれるのかもしれません)。


そしてペットを介した自己表現。これが実はとても大切な部分だと思うのです。世の中にはペットを通じてしか自分の感情を表現できない人がいて、そういう人にとってのペットは家族ではなくまさに自分自身です。だからそのペットを侮辱されたり奪われたりしたら、ひどく怒ります。だって自分が侮辱されたり傷つけられたりするのと同じことですから。


これの大変分かりやすい例を私は映画で見ました。

ヴィゴ・モーテンセン主演の「オーシャン・オブ・ファイヤー」という作品で、原題を「ヒダルゴ」といいます。

この「ヒダルゴ」というのはヴィゴが演じるフランクの愛馬の名前で、彼の口癖が「俺の事は何を言ってもいい。だが俺の馬を侮辱したら許さん」というもの。実は彼には暗い過去があって、そのせいで自暴自棄になり世捨て人同然になっているんですが、そんな彼がたった一つ大事にしているものが愛馬ヒダルゴなんです。だからヒダルゴを馬鹿にされた時だけ彼は生き返った様に熱くなり、侮辱した相手がそれを撤回するまで向かっていきます。


フランクは映画の中でしょっちゅうヒダルゴに話しかけ、「お前もそう思うだろ」と訊ねます。そしてその時の馬の反応を我が意を得たりとばかりに「やっぱりそうだよな」とうなずくんです。それはもはや馬ではなく彼自身の思いなんですが、彼は「ヒダルゴがそういうなら」という理由づけをしてからでないと行動に移せないんですね。何故なら彼は自分自身をこの世の中で全く不要な存在と感じているから。自分のために何かをするなんてフランクには許せないんです。でも、ヒダルゴのためなら何だってできる。そうやってフランクはヒダルゴを使って自分の精神のバランスをとりながら、偉業を成し遂げるのですよ。


ジョン・ウィックにとってのデイジーも多分にそんな要素がありました。死んだも同然だったジョンは、子犬のデイジーを育てる=生かすことで自分も生きることができると思い始めていたのです。フランク同様、まるで相手が人間であるかのようにデイジーに話しかけながら。



しかしです、ここで「犬パシー」でも「馬パシー」でもいいですが何か機械装置がついていて、デイジーやヒダルゴが本当はどう感じているかを示したらどうなると思います? 問いかけに全く関係なく「いいからエサくれよ」みたいな反応が返ってきたら。ペットを介して自問自答することで心の平安を保っていた飼い主の精神状態は破綻するでしょう。まあそうなる前にペットとの関係を考え直すと思いますが。


ジョンもフランクも実際にデイジーやヒダルゴが思っていることなんか実はわかっちゃいないんですよ。彼らはただ、自分の感情を犬や馬に託して表現したいだけなんです。ペットからの実際の答えなんか必要ないんです。だって彼らのペットはイコール彼ら自身の思いそのものなんだから。心が傷ついて血を流している人がペットを飼うのは、相手からの答えや言葉を期待しなくていいからなんじゃないですか? ただ一緒にいて感情を分かち合うことで(実際は一方的な投影かもしれないけど)、心の傷を癒すことができる。追い詰められ、すり減ってしまった彼らの自己の最後のよりどころが物言わぬ動物だと思うんです。そこにペットのありがたみがあるんじゃないかと思うんですが。



むろん精神的に健康な方は「犬パシー」や「馬パシー」(これはまだ開発されてないけど)の反応を見て一喜一憂しながら軽口とばしたりできるでしょうけれどね。


ペットの飼い方といっても人によって千差万別でしょうから、「犬パシー」を上手くつかいこなせる飼い主さん達もむろんたくさん存在すると思います。


でも何かね、それが今まで築いてきた人とペットの関係を根底からくつがえすものにはならないで欲しいなあと、映画でしかペットを知らない私は思ったりしたのでした。


いずれ技術は進歩して、ペットの感情をうかがい知るどころか意思疎通まで可能になるのかもしれませんが、それは決して楽しく幸せなことばかりではないんですよと、SFファンは思うのです。だって「猿の惑星」の世界になったらヤだもんね。