映画「メッセージ」のポスター画像が宙に浮く「ばかうけ」にそっくりだと話題になったのはご存じだろうか。
その評判を耳にし、話題にのって「メッセージ」を見に行った人はきっと愕然としたに違いない。だって、めっちゃ、難しいんだもん!
以下内容に触れますので未鑑賞の方はご注意を。
こんな空に宇宙からやってきたとしか思えない「ばかうけ」型の物体が浮いてたら人はどうするか、というのが「メッセージ」の始まり。
そりゃもお調査するしかないでしょってんでお呼びがかかったのがエイミー・アダムス演じる言語学者。彼女はその頃謎のフラッシュバックに悩まされているのだが、調査が進むにつれフラッシュバックの内容がその時の手助けとなることに気づき始める。
ネタバレを書いてしまえば、これが実はフラッシュバックではなくフラッシュフォワードであったというのがオチなのである。
フラッシュバックというのは映画の手法で過去の映像が現在の中にちらちらと差し挟まれること。人が「フラッシュバックに悩まされる」というのは、過去の幻影が見えたり夢となって現れたりが頻繁に起こる場合を言う。
バックが過去、そなわち時間軸の後ろを指すのでフラッシュフォワードはその逆、時間軸の先、すなわち未来を幻視することを指す。フラッシュバックに比べてこちらが一般的でないのは、SFとかファンタジーといった設定下でなければ成立しない状況だからである。
「メッセージ」はSFなので大手を振ってフラッシュフォワードを使えるわけだが、その映像をあえて過去なのか未来なのか分からなくすることで謎めいた雰囲気を醸し出し観客をひきつけるのに成功していた。
物語がすすむうちにヒロインの見ていた映像は実は過去ではなく未来の物であると分かった瞬間、観客は一種のどんでん返しを味わう。そして「あっ、そうだったのか!」とそれまでの疑問が一気に解決するカタルシスを味わう。その一連の流れを体験することが、この映画を味わうためのポイントだ。
ところが、観客の中にはSFなれしていないせいか、最後までその「過去ではなく未来」というどんでん返しに気づかない人もいるようなのだ。どんでん返しのショックもそれに続くカタルシスも得られなければ、そういう人にとっての「メッセージ」はただ淡々と物事が調子良くすすむだけのつまらない映画となるだろう。そういう観客が僅かでもいるのなら、評価はやはり「ばかうけ」とはいかないはずだ。
ところで「メッセージ」の見所はそのSF的仕掛けだけではない。
これは「光をくれた人」や「マンチェスター・バイ・ザ・シー」と同様、子どもを亡くした親の物語だったのだ。それを一人で表現しているのがエイミー・アダムスだ。「ノクターナル・アニマルズ」同様、何とも得体の知れない状況に追い込まれ、その中で感情をもてあます役ではあるが、こっちの方がずっといい。「メッセージ」のヒロイン、ルイーズには勇気と物事をやり遂げるパワーがあるからだ。
ルイーズが悩まされている幻影は、亡くした娘に関わることばかりだ。観客はティーンエイジの子どもを亡くしたにしてはルイーズの外見が随分若いなと思いつつ、でもそこはハリウッド映画だしなどと勝手に理由をつけてその疑問を押し殺す。だが外見にギャップがあって当然なのだ。何故ならその子はまだ産まれてもいないのだから。
それなのにルイーズは幻影の中でその子を我が子として深く愛し、失ったことで深く傷ついた記憶を甦らせ、その時の心情をも思い出す。未来の出来事なのに過去の記憶としてルイーズに感じられるのは、まだ「未来の記憶」をの存在を彼女が知らないからである。
最終的にルイーズが未来の記憶を呼び起こすことによって世界は救われる。そして彼女は一緒に異星人を調べた仲間である数学者のイアン(ジェレミー・レナー)と結婚を決める。いずれ二人の間に生まれる娘が若くして死ぬと知りながら。
彼女がそう決めたのは、それでも娘に出会いたかったからだろうか。
それとも娘を生まなければ未来を変えることになるからと受け入れたのだろうか。
その答えは冒頭にある。
ルイーズは自分で未来を選んだのだ。
その先に深い喪失が待ち受けていると知っていても、その短い時間を共に過ごそうと。