「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」がいつの時代を背景にしたものかは公式サイトにきちんと書かれている。

 

が、私はざっとしか読んでいなかったので、20世紀の人であるぐらいしか覚えていなかった。あと、予告編を見てアメリカではなく、カナダの人であることぐらいしか予備知識を持たずに劇場鑑賞にのぞんだのである。

 

 

で、いきなり、それがいつの時代か分からず、悩んだ。

 

いや、別に、映画の内容を理解するのにそれがいつの時代かなんて全然必用はないのです。それがどの時代であれ、普遍的な物語としてこの作品は通用します。それは孤独な二つの魂が出会い、葛藤し、それでも寄り添いながら生きる術を発見するという、人の世の永遠のテーマを語っているからです。

 

それはそれとして、映画の中の情報からそれがいつなのか全然推しはかることができなかったので、自分の知識の足り無さに茫然としたわけですよ、私は。

 

え? この服だと1920年代? いや、30年代? 車があるから、第一次大戦後で第二次大戦前だとは思うけれど、それにしても分かりやすい指標がない……って、そうか、ここ、アメリカじゃなくてカナダだからか……。

 

そうなんです。アメリカが舞台の映画なら、なんとなくその時代がいつかは漠然とであっても大体分かるものなんですが、この映画ではそれができなかったんですね~。モードの着てる服のスタイルとかは「ワンダーウーマン」の時代にも似ているんだけど、それがニットだとさほどモードを反映していないというか……。それに戦時中って感じでもないので、第一次大戦中ではなかろうとは思ったんです。

 

でも、ジャズクラブが出てくるのにバンドのメンバーが全員白人だから、第二次大戦後でもなかろうと。これは車のデザインもありますね。ただその車も真っ赤っかの赤さびなので、どれだけの年数がたっているかも分からずじまいで……だから、いつだよ、と。

 

そうやってヒロインのモードが登場し、エベレットと出会い、彼の家で住み込みの家政婦をしながら絵を描き始め……と物語が進んでいくんですが、時の経過がやっぱりいまいち分からないままなんですよ。

 

ようやく1950年代になったと分かったのが、それっぽいフロントグリルの車が出た時。丁度スティーブン・キングの「回想のビュイック8」を読んでて画像を検索し、映画「カーズ」に出てくるハドソン・ホーネットなんかも改めて画像チェックしていたから。こういうデザインの車が1950年代頃に流行ったらしいと思ったのね。

 

 

その次に出てきたのが「ニクソン大統領」という言葉。「ザ・シークレットマン」見たばかりだし、ようやく知った名前が出て来た、1960年代になったのかーと映画見てる間は思ってたんですが、これ違いました。ニクソンが副大統領だったのはアイゼンハワーの下で1953年からで、その後1960年の大統領選ではケネディに負けたのでした。ケネディが暗殺された時の副大統領はジョンソンで、そんでその後にニクソンが大統領になったのは1969年のことだったのでした。う~ん、そうだったのか~。

 

で、いつの間にか第二次大戦後になっていたの判明したわけですが、モードさん達の生活って、ほとんど変わってないんですよ。確かにお家の内外の絵は増えてるんですが、日常生活を営む様子がずっとそのままなので家電製品の変化で時代をはかることもできないのです。エベレットのトラックは新しくなってたようですが、それも新車って感じではないし。

 

それでもモードやエベレットは着実にトシをとっていってるんですね。そんな中でエベレットの心や態度に変化が生まれ、モードの描く絵が単なる趣味から副大統領までが欲しがるような作品へと評価を高めていく様子も描かれているのです。ここに至るまでには随分時間がかかったんだろうなあと思いつつ、でもその具体的な年数は分からないままというのが自分的には悔しかったですね。

 

モードの絵を取材にテレビクルーがやってきて、その番組を彼女の家族がテレビで見るというシーンがあって、これは紛れもなく1960年代だろう、1964年頃かな~と嬉しくなりましたね。

 

とにかく、モードとエベレットが暮らしていた家って、周囲にも目立つような建物がなく、自然環境に包まれているだけなので、季節以外に変化が感じられないんですよ。四季を感じる以外に、それがいつなのか分からない! 何もかもが目まぐるしく変わり続ける現代に生きてると、ちょっと信じられないぐらいにずーっと基本的に同じ生活スタイルを続けてるんですね。

 

他の人の暮らしはどんどん変わっていってて、家にはテレビもあるし車のデザインだってスマートに変わっていってる。そんな中で何十年も前と変わらぬ暮らしを続けてるって、モードとエベレットって結構な変わり者だったんだろうなと思います。二人が自分達の生活に何の不足も感じてなかったということなのでしょうが。

 

少なくともモードは絵さえ描ければそれで満足だったみたいです。

劇中ではサリー・ホーキンスが実際に筆を運んで上手に描いています。それはとても可愛い絵です。可愛いからカードの柄として人気が出たのかな~なんて映画見ながら思ってました。

 

けれどもエンドクレジットになって、モードが実際に描いた作品を見た時、そんな思いは消し飛びました。その絵に魅せられて腰が浮きましたもの。

 

「うわうわうわ、すごい、可愛い、何これ、すごい!」

 

そんな感じでしたよ。

岡本太郎氏の言葉に「芸術は爆発だ」ってあるじゃないですか。

それがモードの絵なんです。

爆発してるんですよ、彼女の歓喜が、その絵の中に。

 

モードが運んだ筆の先から、彼女の喜びがあふれてる。強い吸引力をその絵は持っているのです。だからみんな競って彼女の絵を買い、飾りたがったのだと、エンドクレジット見てやっと理解できましたよ。可愛いだけだなんて思っていた自分が恥ずかしいです。

 

その一筆を運ぶのに、モードがとても苦労し恐らくは痛みを伴ってさえいたであろうことを思うと、何故そんなに明るく幸せな絵が描けるのだろうと不思議にさえ思えますが、そんな不自由さを背負っていてもまだ自分には絵が描けるということこそが強い喜びだったのかもしれません。

 

そんな彼女にふさわしい、静かで力強くちょっと不思議で、そしてとても美しい映画でした。