『バーフバリ 伝説誕生』『バーフバリ2 王の凱旋』一大スペクタクルを築き上げた周到な計算と作品構造(CINEMORE) - Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190101-00010000-cinemore-movi @YahooNewsTopics

 

 
>かつてないインド映画の登場

 インドで歴代興行収入1位、アメリカでは初登場3位を記録するなど、インド映画として未曽有のヒットを成し遂げ、伝説的な存在となった『 バーフバリ2 王の凱旋』。圧倒的な面白さで観客を熱狂の渦へと巻き込み、めまいすら覚える恍惚の世界へと導いた大スケールの娯楽巨編だ。

 日本でもバーフバリの熱狂的ファンが多数生まれ、異例のロングランを達成するばかりでなく、前作『 バーフバリ 伝説誕生』とともに、上映時間の長い「完全版」があらためて公開されるという事態が起こった。さらには声をあげて登場人物を応援する「絶叫上映」や、観客が踊ったり紙吹雪が舞うインド風「マサラ上映」が行われ人気を博すなど、カルト的な人気も獲得した。監督のS・S・ラージャマウリを始め、悪役バラーラデーヴァを演じた俳優ラーナー・ダッグバーティや、クマラ・ヴァルマを演じたスッバラージュなども、それぞれ来日を果たした。

 世界で高い評価と人気を獲得し、北朝鮮でもヒットするなど、本作の魅力は古今東西、隔てのない普遍性を持つことが証明されたといえよう。しかし、なぜ本作は、ここまでの熱狂を生み出したのか。同じく熱狂させられてしまった一人として、『バーフバリ 伝説誕生』、『バーフバリ2 王の凱旋』2部作の凄さとは何だったのかを、ここであらためて考えてみたい。

 
万能監督S・S・ラージャマウリ

 本シリーズは架空のファンタジー作品である。「 指輪物語」を原作とする『 ロード・オブ・ザ・リング』(01~)シリーズのインド版だと考えれば分かりやすいかもしれない。「指輪物語」が、ヨーロッパの神話・伝承などをベースにしているのと同じく、本シリーズの物語はヒンドゥー教はもちろん、ヒンドゥー教の重要な聖典として数えられる「マハーバーラタ」が下敷きにある。設定や登場人物の個性など、読み進めていけば多くの類似点に突き当たる。

 驚くべきは、この大スケールの物語を創造し、さらに見事な演出で凄まじい完成度の作品を作り上げた、S・S・ラージャマウリ監督の万能的な手腕である。

 卓越しているのは、豊かなイマジネーションと卓越した表現力だ。過去作『 マッキー』(12)は、悪漢に殺害された主人公が死後ハエに転生してしまうものの、ハエでありながら厳しい筋トレを行い、復讐に臨むという驚愕の物語だった。そんな映像化が困難に思える題材であっても、的確に表現して観客に感動すら与えてしまう。

 『王の凱旋』冒頭、暴れ象の暴走から始まる大迫力のシーンが、黒澤明監督の『 用心棒』(61)を想起させるように、そこに存在するのは、観客の心理を誘導してシーンを盛り上げるドライブ感だ。そして、それを支えるのは、ジョン・フォード監督や、ジョージ・ルーカス監督、スティーヴン・スピルバーグ監督など、優れた娯楽ヒット作品を生み出す、限られた監督しか持ちえない才能だといえよう。

 そこからさらにカリスマあふれるバーフバリによる、暴れ象を止めるこれ以上はあり得ない華麗なる決着と、そこから勢いに乗って、ターメリックにより黄金色に彩られる象の背に颯爽と乗る、神のごとき姿が鮮烈だ。このように、まさに天上にまで登ろうとするかのような高揚を観客に与える映像体験は、いままでに鑑賞したインド映画のなかでも圧倒的である。


 同様に、『 ベン・ハー』(59)、『 グリーン・デスティニー』(00)、『 300 スリーハンドレッド』(06)、『 ライオン・キング』(94)、『 タイタニック』(97)など、古今東西のスペクタクル表現に類似する場面も見られる。節操がないが、そのどれもが効果的で、鑑賞者の脳の快楽物質を効率的に分泌させていく。

 

カタルシスを発生させる周到な計算

 このようにスケール感や高揚感が魅力の作品であることは間違いないが、大味な作品というわけでもない。例えば、バーフバリがカッタッパと諸国行脚するエピソードのなかに、地方の裁判所で大岡裁きのような機転の利いた判決を傍聴して、バーフバリが感銘を受ける場面があった。それが後にデーヴァセーナ裁判におけるバーフバリのとっさの行動の伏線となる。

 また、主人公バーフバリを窮地に陥れようと画策するバラーラデーヴァが、衆人環視の状況において重臣である父親にバーフバリを批判させる絶好のタイミングを狙うのを、肩に置いた手によって表現するなど、本作の豪快な見せ場を支えているのは、細心の演出なのである。

 インド映画には、「ナヴァラサ」と呼ばれる、人間の9つの感情を作品にとり入れるという考え方が存在する。本シリーズもまた、豊かな感情がつめ込まれた内容になっている。それは観客の感情移入をうながし、快感を与えるカタルシスへと誘導していく。

 カタルシスは、抑圧と解放の表現の落差によって生まれる。奴隷剣士として汚い仕事を押し付けられてきたカッタッパや、信念を曲げず道理を通すことで王国から追放されるバーフバリ、役立たずだと思われていた登場人物が秘められた才能を見せるなど、様々なカタルシスが用意されている。それを象徴していたのが、『伝説誕生』における、青年・シヴドゥの長大な滝登りの描写であろう。艱難辛苦を乗り越えて到達するからこそ、大きな愉悦が与えられるのだ。

 だが、それだけでは本作の素晴らしさを説明するには、まだ不十分である。「バーフバリ」には、まだ隠された何かがあるはずだ。

複雑な作品構造は何を意味するか

 思い起こせば、前編にあたる『バーフバリ 伝説誕生』も、ブームが起こる以前に日本で上映されていたが、このようなブレイクは起きていなかった。もちろん、『伝説誕生』も文句なく面白い作品である。しかし今回の望外な成功は、あくまで『バーフバリ2 王の凱旋』 によってもたらされたものだということは間違いない。この2作の違いを考えれば、成功の理由が浮き彫りになってくるはずだ。

 本シリーズが異質なのは、物語上の構成である。『伝説誕生』の途中から、物語は奴隷剣士カッタッパの語る、アマレンドラ・バーフバリの回想となる。そして第1作のラストを超えて、第2作後半までその回想が続くのだ。前代未聞の試みに思えるが、これはベースとなった「マハーバーラタ」において、物語の途中にも関わらず、長い回想が挿入される構成に類似している。その回想部分は、「バガヴァッド・ギーター」と呼ばれる。

 「バガヴァッド・ギーター」は、戦いを目の前にして作中の登場人物が覚悟を決めるために説かれる、一種の宗教哲学である。その献身的で無私の行為を称揚する内容は、マハトマ・ガンディーなど、インドの独立指導者たちに大きな影響を与えているという。

 

常にバーフバリと行動を共にしてきた、語り部カッタッパの口述による、長い回想によって、自分の生い立ち、そしてアマレンドラ、シヴァガミ、カッタッパ、デーヴァセーナなど先人の熱い想いを理解した青年・シヴドゥは、それらの魂が乗り移ったかのように、一気に王としての自覚とカリスマ性を発揮する。ガンディーが「バガヴァッド・ギーター」を「精神の辞書」と呼んだように、まさに崇高な魂が、語り部カッタッパにより、シヴドゥの精神に乗り移ったのだ。

 「クシャトリア(王族、士族)」の義務が本作で説かれるように、政治を執り行う者の心は、常に庶民とともにあらねばならず、有事の際には先頭になって矢面に立たなければならないことが、ここで示されている。そこにはさらに、セクハラを許さず女性を尊重するような、より現代的な社会観が加味されている。

 そう、「バーフバリ」の回想部分は、宗教哲学をベースとする、現代における生き方の理想そのものを具現化している精神的な物語なのである。だからそこには、尋常ではない熱気がこもっている。『王の凱旋』が全編素晴らしいのは、この回想がメインであることと、それを継承したシヴドゥの物語が連続するからだ。同時に、その価値を支えたのは、カッタッパ口述までの流れを作った、他ならぬ『伝説誕生』の功績であるともいえよう。

 本作で描かれた高潔な精神は、別の宗教圏にあっても通用する普遍的なものだ。だからその魅力や価値観は、広く伝播することになったといえる。神の化身「バーフバリ」は、世界の人々が憧れることができる理想そのものの姿なのである。

文: 小野寺系
映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。
Twitter:@kmovie