『カオス・ウォーキング』見てて、1時間ぐらいたったところで「あれ? 私この話知ってる」と数年前に原作読んだのを思い出した。当時は夢中でシリーズ最後まで読んだはずなのに、何で今まで綺麗サッパリ忘れていたのやら。それは恐らく原作がヤングアダルトという制約下にあったせいだと思うのだ 。
ヤングアダルト原作という制約は映画の中でも生きていて、それは例えば主人公の少年が「女」の事を思い描く際にも生きている。男性のみの集団生活で身近に現実でも想像でも女がほぼ存在しないため、具体例がないというのもあるにしろ、思春期の彼が女性を思い描いても性には直結しないから。
『カオス・ウォーキング』の世界では男性が思い描いた想念は全部映像となって周囲に駄々漏れとなるから、そういう事を考えないように訓練もしているのだろうが、それにしても主人公の村の男達は女とのセックスを考えない。これが日本だったらありとあらゆる性行為がそこら中で展開されてるだろうに。
私はそこに作者の恣意を感じる。「ヤングアダルト」という制約を都合良く使ったな、と。本当はそうあるべき姿を「子どもに見せちゃいけない」という建前を利用して書かずにすませたのだと。男だけの社会に生身の少女が突然現れた際の彼らの性欲を描かず、存在しないかのようにスルーしたのだろうと。
だから少女が現れた際の主人公の反応も可愛いもので、精々「キスしてくれるかな?」ぐらいなのである。それ以上の知識がないのかもしれないが(村には本がなく、彼は字も読めない)しかしそれは他の村人=全員男達が普段から想像でも夢でも女性とのセックスを思い描かないという事を示唆してもいる。
そう、あからさまに語られてはいないが、ここの村人は、恐らく女性相手のセックスを特に必要としない男達なのだ。主人公は違う。女がいなくなったのは、彼や同世代の少年達が自分達のセクシャリティーを自覚する前だから。しかし大人の男達は女のいない社会に直面して、それでやっていけるのか?
軍隊とか刑務所とか「男だけ」の社会は昔からある。しかし軍隊には売春婦がつきものだし、刑務所では弱い立場の男が女の代わりとなるそうだ。男の性欲はコントロールできないらしい。それをあたかも全てコントロール下にあるとして描いているから『カオス・ウォーキング』は子ども向けのお話なのだ。
そしてその設定を最大限生かして、作者は「社会の成員が男だけだったらどうなるか」という思考実験をした。 「女への恋慕(性欲)で男が惑わされる事のない世界」 それはかつて宗教とか哲学とか、「男だけが考える事を許された世界」においては一種理想の社会だったはず。 女に邪魔されない男の天下。
だがそれが現実になった姿は単なる戦闘集団だった。有能で、無敵(武器のテクノロジーが同等の文化圏において)かもしれないが、やることは収奪と殺人、目指すのは権力と支配である。集団におけるボス争いを死ぬまで続ける、猿山のような社会。カリスマ性のあるボスに全てを委ね、死ぬまで戦うのだ。
男性は、女の言うことはうるさいと退けたがる。セックスも自分が思いを遂げるまではいいが、その後の束縛を避けたがる。仕事が忙しければ気が散るからと女を遠ざけようとする。そのくせ自分のしたい時にセックスができないと怒りを女にぶつける。その結果、いつか周囲から女が消えるとは思ってもいない。
まあ、いなくなっても何とかなるのだろう、しばらくは。『カオス・ウォーキング』はその「しばらく」の世界を描いている。硬直し、閉塞した社会を。映画では未来の事として描かれているが、実際に同様の事は何度も起こっていたかもしれない。今は絶えた文化として誰にも知られる事のないままに。
『カオス・ウォーキング』では少女が現れ、彼女と出会った少年が動く事によって世界に風穴を開けていく。 それは混沌と死を招きもするが進歩への道筋もつけるのだ。「恋」とはそういう力だ。ヤングアダルトに限らず文学的には「世界を変える力」を持つとされてきた。そっちの方が美しいじゃない?
さて。それとは別に思ったのだが、主人公が属していた集団が男ばっかりで何事もなかったのは、彼らがゲイだったからではないかと。そもそも女を性欲の対象としていないから、女性がいなくなっても平気。仮に彼らがノンケの男性に惚れた際、恋敵は当然女性となるだろうから、憎んでさえもいたかも。
そういう彼らが集まって徒党を組む、或いは聚落を作ったりすると、原始社会では一種の脅威となったのかも。宗教で同性愛を禁じたのって、案外そういう実例を幾つか見てきた結果、個別に注意するのは面倒だから全面的に禁止しちゃえってなったのかな、なんて思ったりして。原始社会のことですからね。