濡れ手で粟
*苦労せずに利益を得る事
手を濡らす、という準備を、
しっかりした上で、粟を掴むから沢山採れる
*昔、粟は、米のように主食として食べられていた
コレは、ズルイ行為だよね
ここで、突然
江戸時代に、タイムスリップ
ある高級料亭の一室
二人の男が話している
コレは濡れ手で粟ですなぁ
お代官様
越後屋、お主も悪よのう!
よくぞこのような悪どいカラクリを考えた!
褒めてとらすぞ
ワッハッハハ
それでは、そろそろ一献といきましょう
お女中さん、こちらへ
は〜い
夜は更けていく
屋根裏には、風車の弥七
調べ上げて
何だかんだ黄門様に、悪業がバレる
舞台は、お代官様のお屋敷の中庭
(中略)
この紋所が目に入らぬか!
上様の御前である!
控えおろー‼️
タータンタータン、ツッタターン♪
なんて感じになる
イメージまで湧いちゃう(笑)
でも現代版
濡れ手で粟は
ひょっとしたら?
だってさー、
手を濡らして取ってはいけないって
どこにも書いてないじゃん!
だから、コレ正当な取り方でしょ?
なんて、開き直って
裁判では、
それが認められちゃったりするなんて
ありそうな話だよね
濡れ手で粟も、良いアイデア!なんてね
どんな手を使ってでも
儲かれば良いっていうのを続けると
徳を積む事は出来ない
汚く稼ぐお金で、
刹那的に人生を楽しむと
折角 積み上げた徳を
どんどんマイナスしていく
それまでに折角
積み上げた徳を、
濡れ手で泡にしてしまう
戦国時代の武将が、神社仏閣を建てたのは
大義名分の元、殺戮を繰り返した事で
地獄に堕ちないようにする為に
少しでも徳を積むためだったのではないか
なぜか今朝
寝起きに、ふとそんな事が浮かんできた
もし、徳を積む事が
何の役に立つのか?
役に立つならやろう
なんて思うなら
何かの役に立つ、と思ってやる事自体
徳ではなく、徳もどき
その考え方から
変わる事が必要だね