敗戦から75

「戦争を二度と繰り返してはならない」


816日の岳南朝日新聞に掲載

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テーマ:満州難民『家族の死』




1、  伝えることの大切さ

私の家族は満洲でおばあちゃんと妹の二人を亡くしました。

1945(昭和20)年8月15日の敗戦から1年間。

彷徨(サマヨ)う満州難民となって、

筆舌に尽くせぬ苦難ののちに日本に帰れたのは翌年の7月25日。

一緒に帰りたかった二人を忘れないためにも、

生き残った者の務めとして『戦争を二度と繰り返してはならない』こと。

改めて敗戦から75年の節目に

『後世に伝えることの大切さ』と、

『この悲しみを風化させてはならない』と、

筆を執りました。

 

2、  満洲の大地で育つ

 私の父、

一級電気技師の塩川寿介(19031961)は、

国鉄から満鉄の電化計画のために招聘されて

1934年に日本と往来の単身赴任。

私の母、塩川豊子(19151999)は、

兄と姉と《お腹の中の私》を連れて1938年に夫のいる満州へ。

そして、私はその年に満州国「奉天 ホウテン」で生まれました。

妹は 1941年に「牡丹江 ボタンコウ」で生まれました。

引揚途上で亡くなった末の妹は 1945年に

「通化 ツウカ」で生まれました。

父は転勤が多く、

私たち兄弟姉妹は広大な満州で生まれ、暮らしました。

という訳で、

私は日本に帰る79カ月まで《満州の大地》で育ちました。

 

3、二人の死

母方のおばあちゃん〈ハヤシ ツウ〉は、

1945815日に「通化」で亡くなりました。

葬儀も出せぬ緊迫した中であわただしく火葬され遺骨の

ほんのちょっとだけを持ち帰ることができました。

末の妹〈スミコ1945.946.7〉は、

引揚船(米軍リバティー型貨物船)で「葫芦島 コロトウ

(中国側:日本海に面した引揚指定港)」を立ち、

機雷の漂う海を注意深く8日間の航海のち、

舞鶴港(京都府引揚受入港:演歌「岸壁の母」で有名)にやっと着いて

検閲のための停泊中、

スミコは上陸を待たずに短い10カ月のイノチを閉じました。

母は慟哭しながらデスマスクを描きました。

写真1枚残せなかったので、

この鉛筆画のデスマスクがスミコがこの世いた唯一の証です。

引揚船では私たちが見ている前で、

毎日23名の死者を毛布に包み、

デッキに設けられていた特別の滑り台から水葬されていました。

海にドボンと姿を消すつらい悲しい残像が私の目に焼き付いています。

幸いスミコは舞鶴で火葬され、

遺骨は富士宮に持ち帰ることができ、

菩提寺の妙円寺に弔うことができました。

微笑むスミコを忘れずにお線香をあげて、

父と母と一緒に供養できることがせめてもの救いです。

 

4、7歳の私が見た恐怖

 1945.8.9、日ソ中立条約を破って157万のソ連軍が満州に

侵攻しました。

「通化」もアブナイとの情報が入り、

急遽 1945927日に無蓋車で「通化」を脱出しました。

「四平街 シヘイガイ」まで逃避行を続け、

この地にとどまりそれから1年間の満州難民生活となりました。

私たちを守ってくれるはずの関東軍も、

日本国も何もしてくれませんでした。

その後、満州全土はたちまち中国内戦の戦場となりました。

四平街は鉄道要所であり、軍事拠点でした。

私たちが住み始めた当初は蒋介石の国民党軍の支配下にありました。

 

ところが間もなく毛沢東の八路軍との交戦が始まり、

八路軍が占領したり、押し返して国民党軍が奪還したりの日々でした。

私たちの住宅群は戦場の真っただ中となり。

各家では畳をはがし銃弾が飛び込まないように窓際に立てかけ、

床下を掘って家の中に地下壕を作り生活しました。

床下に作った小窓から外を見ていると、

西部劇のように四平街駅周辺の陣地を騎兵隊がやってきて

馬上から銃を撃つのが見えました。

やがて装甲車に機関銃を装備し、

後方に歩兵をぞろぞろとつれた強力な軍隊が攻撃する姿が見えました。

両軍の戦闘が激しく続くと、

戦闘は定期的に2週間ほどお休みになります。

子どもたちは地下生活から湧き出すように這い出して、

青空のもと駅前の公園に遊びに行くのですが、

私はそこで恐ろしいものを見てしまいました。

草むらに放置された兵士の死体です。

ウジが湧き、ハエがぶんぶん飛び交い、ものすごい悪臭です。

7歳の時の私の恐怖を今も忘れることはできません。

殺す側にも、殺される側にも、なりたくないと強く思います。

 

5、兄がソ連兵に捕まった

半年ほどの激しい攻防戦ののち八路軍の支配下となりました。

八路軍の兵士たちは規律正しく、

1617歳ぐらいの童顔の少年兵が多くて驚きました。

野営部隊の昼食どきに子どもたちがひもじそうに見ていると、

手招きしてご飯のお焦げをくれました。

いつもお腹をすかしていた私たちは

固いお焦げをもらうことが喜びでした。

 

こんな笑い話もあります。

少年兵が休暇のとき、赤ん坊のスミコがかわいいいと、

抱きたくって自宅に来るのですが、

ある日、かわいい毛糸の赤い帽子をプレゼントしてくれました。

謝謝! 謝謝!とお礼を言ってもらったのですが。

後日、三軒離れた日本人宅の赤ちゃんの帽子だったのです。

干してあったものを盗ってきてしまったようです。

返しに行って大笑いをしたものです。

 

やがてソ連兵が駐留してくると一変しました。

真っ先に入ってきた突撃隊は

監獄から刑期を免除されて出てきた命知らずの部隊で、

恐ろしい兵士たちでした。

『ダバイ(よこせ)! ダバイ!』

『女を出せ!』

『金を出せ!』

『時計を出せ!』と、

入れ墨の腕にいくつもの略奪した時計をしていました。

とうとう我が家にも二人のソ連兵が土足で入り込んできました。

父親は八路軍の使役にかりだされていて不在でした。

母親と子どもの全員で力の限り大声でただただ泣き叫びました。

本当に怖い日々が続きました。

 

ある日、

中学一年生の兄がソ連兵に連れられて行くの私は見ていました。

どの家も玄関は鍵をしているので、

ソ連兵の声で『開けろ!』と言っても開ける人はいません。

日本人の子どもを使うのです。

兄の声で玄関を開けさせるために、

兄はソ連兵につかまって連れていかれたのです。

帰ってきた兄に聞くと『怖かった』と震えていました。

幸い兄が連れて行かれた家は玄関が開いていて、

ソ連兵は女性を探したのですが見つからず、

貴重品を盗って帰ったそうです。

その家の奥さんたちは屋根裏に

隠れがを作っていて息を殺していたそうです。

ソ連兵が来てからは、

女の人たちは男のように髪の毛を丸坊主にしたり、

顔に墨を塗ったり、男装したりしていました。

 

6、中高生に伝えたくて

 かつて少年少女であった私たち戦争体験者も

高齢となって去っていく今。

風化される戦争の悲惨さを何としても

『中高生に伝えたくて』

『中高生に読んでもらいたくて』

この文章を書きました。

想像力豊かな中高生ならば、

戦争の悲惨さを理解することができるでしょう。

想像力が何よりも大切なのですが、

私のこの文章を自分のこととして感じてほしいのです。

戦争体験がなくても私の『伝えたいこと』が

『伝わること』を信じています。

 

実は私は、自分の体験からのみ

『戦争を二度と繰り返してはならない』と

言いたいのではないのです。

私は中高生の時から戦争について勉強してきました。

中高生にお願いがあります。

図書館に行って

「アンネの日記」

「人間の条件」

「戦争と平和」、

この3冊の本を読んで下さい。

 

そして想像力を働かせれば、

戦争を知らない中高生でも、

平和を願う心が芽生えてきます。

想像力がなければだめですから

常日ごろから豊かな想像力を養ってください。

想像力が豊であれば、

『生きたいと願うアンネに共感し』

『平和を願う五味川純平になれるし』

『トルストイと共に戦争と平和を考える人』になれます。

 

これからの中高生の想像力に期待します。

日本にはこの太平洋戦争の誤りを深く反省して、

世界文化遺産ともいえる『平和憲法』があります。

私も命果てるまで『伝える』ために学び続けます。

中高生の皆さんも戦争と平和について学んで、

『伝える人』に育ってください。