今回の(第27話)「教育小説:大地保育ものがたり」は、2021年3月25日発信の(第23話)を大幅に校正+加筆した新版です。
第27話:
じゅっぺ教授は7歳8ヶ月まで満州生まれの満州育ち
戦前1937~1946年のファミリーヒストリー
満州生活のはじまりは・・・戦前1937年【父の満鉄へ転勤】~
~1946年【敗戦~満州難民~引揚者~帰国】の
在満10年間にわたる塩川ファミリーヒストリー
このお話は、帰国後の野中保育園開園=「大地保育ものがたり」以前の、
ルーツ塩川家のファミリーヒストリーです。
《あらすじ》
旧国鉄に勤務していた父親が満鉄勤務を命ぜられ。
まず、単身赴任で1937年(昭和12年)満州に渡りました。
翌年1938年(昭和13年)家族も全員渡満しました。
1945年8月15日・・・日本国の敗戦。
それから国民党軍(蒋介石)と八路軍(毛沢東)の中国内戦に巻き込まれて満州難民となって苦労の末・・・引揚げ。
1946年(昭和21年)7月27日に、じゅっぺ教授の祖父塩川信太郎おじいさんが守っていてくれた父親の実家へ引揚げる。
現在生活している静岡県富士宮市野中に帰国しました。
帰国後は、超食糧難の時代。
実家は江戸時代から続く名主(庄屋)の家でしたので、農地解放後の残された土地があり家族全員が農業に従事します。
1年後の1947年(昭和22年)7月に妹(四女)寿江子誕生。
引揚げの途中で亡くなった妹(三女)寿美子の生まれ変わりと皆で喜びました。
そして、敗戦から7年目の1953年(昭和28年)に
野中保育園の開園となるのですが。
それ以前の塩川ファミリーは?
いったい どこにいて?
子どもたちはどんな学校に通っていたのでしょうか?
と言うわけでこのお話は、
「大地保育ものがたり」以前の、
戦前の塩川ファミリーヒストリーです。
野中保育園開園「大地保育ものがたり」以前のルーツ、戦前の塩川ファミリーストーリーの始まり
ジュッペちゃんのお父さんの塩川寿介(1903.5.1生まれ~1961.10.3没)さんは、旧制沼津中学卒業後(現在の静岡県立沼津東高等学校)~旧制米沢高等工業学校電気科(現在の山形大学工学部電気工学科)を卒業した1級電気技師でした。
卒業後は旧国鉄に勤務し、日本鉄道工事史上の最難関工事と言われる東海道本線の丹奈トンネル工事「熱海駅ー函南駅間」総延長7,804 m(1934年 昭和9年12月1日開通)に従事していました。
その父に新しい命令が下ったのです。
1937年(昭和12年)1級電気技師であった父は、南満州鉄道(以下、満鉄と略す)の電化計画のために満州行きが決まったのです。
満鉄在職中の父は電力課長として転勤が多く、家族を連れて5回も広大な大陸を転勤しました。
父塩川寿介は家族に先駆けて1937年(昭和12年)に、単身赴任で海を渡り満鉄で仕事をしていました。官舎が決まって家族を呼ぶ段取りができ。
1938年(昭和13年)5月に、母豊子は兄(長男)5歳3ヶ月の寿一と、
姉(長女) 2歳10ヶ月の寿々子の二人の子を連れて、博多港から旅客船で出航し、朝鮮の釜山港に上陸し、そこからは汽車で朝鮮を通って満州国奉天駅に到着。
奉天駅からはマーチョ(馬車)で奉天市高千穂通の用意されていた満鉄官舎に向かいました。
兄寿一と姉寿々子のその時の思い出話:
奉天駅からはマーチョ(馬車)で、奉天市高千穂通りに用意されていた満鉄社宅に向かう。
奉天駅では赤帽さん(赤帽を被った駅構内専用のポーター)がマーチョを呼んでくれた。
社宅に着くと馭者は大声で『トーラ トーラ』
(到了 到了=着いた 着いた の意)と言った。』
『マーチョは馬の匂いが凄かった』のを覚えている
と話してくれた。
満鉄勤務の父親の転勤5回と、満州における子どもたちを中心としたファミリーの歩み
① 1938年(昭和13年)5月~1940年(昭和15年)
( 1回目の住所)満州国奉天市高千穂通り8番地
本人(次男)寿平生まれる= 1938年(昭和13年)11月26日。
ここ奉天市高千穂の家で、じゅっぺ教授が生まれました。
兄(長男)寿一(6歳)=高千穂小学校1年に入学。
② 1940年(昭和15年)~1942年(昭和17年)
( 2回目の住所)満州国牡丹江市日照街3番地6号
妹(次女)寿満子生まれる=昭和16年3月7日。
ここ牡丹江ボタンコウで寿満子さんが生まれた。
満州で生まれたので「満」の字を入れて寿満子と命名されました。
姉(長女)寿々子=聖林小学校1年に入学。
兄(長男)寿一=聖林小学校へ転校。
③ 1942年(昭和17年)~1945年(昭和20年)
( 3回目の住所)満州国奉天市大和区葵町23番地8の3号
兄寿一=平安小学校へ転校。
姉寿々子=平安小学校へ2年2学期より転校。
じゅっぺ教授=奉天市にあった羽仁もと子先生設立の自由学園の
付属「幼児生活団」に4歳入園~卒園~平安小学校入学。
④ 1945年(昭和20年)4月
( 4回目の住所)満州国通化市龍泉区興隆街1の3番地
寿一=通化中学校へ入学・・・敗戦により学校なくなる。
寿々子=通化小学校へ転校・・・敗戦により学校なくなる。
寿平=通化小学校へ転校・・・・・敗戦により学校なくなる。
1945年(昭和20年)8月15日=日本国敗戦。
=同居の豊子の母[林つう(49歳)=私たちの祖母]亡くなる。
長女寿々子と次女寿満子が留守番していて、
おばあちゃんを看取る。
『おばあちゃんの顔からハエが逃げなくなった』と。
母豊子は正午の玉音放送を聴きに町内会長宅に向かい留守中。
昭和8年生まれの中学1年生の長兄寿一は通化中学で
玉音放送を聞いた。
1945年(昭和20年)8月16日・・・敗戦の翌日【林つうの火葬】
早朝出かける。通化の火葬場にはすでに火葬用の薪も無く、
自分たちでトラックに薪を積んであわただしく出かけて火葬する。
1945年(昭和20年)9月26日 通化にて妹(三女)寿美子生まれる。
1945年(昭和20年)9月27日 汽車で四平街市まで脱出。
敗戦後、暴徒による日本人襲撃の情報が入り~急遽、逃避行始まる。
⑤ 1945年(昭和20年)9月~昭和21年7月6日まで、約1年間、四平街の日本人居留地での生活始まる。
( 5回目の住所)満州国四平街市若葉区南2条40番地8の2
逃避行中で家はなし。
好意により日本人居留地の知人松崎家に転がり込むように同居させていただく。
松崎家8人家族。塩川家7人家族。さらに避難してきた若夫婦の17名が4LDK(約90㎡)の家に暮らす。
その家にはお風呂はなく、お隣の外庭のドラム缶風呂を共同利用して暮らしました。
お風呂は1週間に1回程度。
石鹸は不足がち。お水もお湯も不十分。そのような中で、
お隣さん家族も私たち17名も交代でドロドロのお湯に入りました。
大陸の夏の暑さ、凍える冬の寒さの中のドラム缶風呂でした。
それでも汗を流すことだけはできました。
日本の敗戦とともに、日本人を守ってくれるはずの関東軍はシベリアに抑留され。
たちまち、国民党軍(蒋介石)と八路軍(毛沢東)の国共内戦が始まり、私たちの住んでいる四平街市は軍事的に重要な要衝・鉄道拠点で、激しい戦場の真っ只中で約1年間の生活を強いられることになりました。
爆弾や銃弾の飛び交う中での満州難民生活でした。
座敷の畳と、布団を窓に立てかけ銃弾を防ぐ生活。
共用の部屋の床下に避難用の大穴(壕)を掘り、両軍の激しい戦闘の日には大穴に避難しました。
とにかく17名が4 LDKの普通の家に暮らすのですから「狭い」「にぎやか」な想像できない日々でした。
ある日のこと、子どもたち8人で自宅前の空き地で遊んでいたところ、突然、自動小銃の音がして弾が雨のようにパラパラ飛んできた。
兄寿一が『やられた!』と叫んで倒れ・・・・・。
じゅっぺちゃんは『兄ちゃんがやられた!』と、
悲鳴をあげながら助けを求めて家まで駆けました。
兄寿一は頭を撃たれ血だらけになって戸板に乗せられて、大人たちの手で救い出されました。
意識もなく「こんこんと眠り」生死をさまよう重傷でしたが、幸い日本人居留地にいた元軍医の治療を受けて
一命を取り止めてることができました。
戦場でしたから5人以上の集団の外出は禁止されていましたが、子どもだから良いと思って8名で遊んでいたら撃たれました。
同じような報告があります。
あの有名な俳優さんの宝田明さんもハルピンで、小学校5年生の時、満州に侵攻してきたソ連兵に右腹を撃たれました。
子どもでも撃つのです。
宝田明さんの右腹から取り出された銃弾はハーグ平和会議(1899)で禁止されている鉛のダムダム弾でした。
⑥ 1946年(昭和21年)7月6日 本格的な引揚げ開始。
日本人居留民引揚列車にて、四平街~無蓋貨車で~
~発車したと思うと、停車、停車とノロノロと。
~7月17日 葫蘆島(コロトウ)着。大連市の近くの引揚者集結の港~
~リバティ船(アメリカ軍提供の穀物輸送船)にて、
~7月20日 舞鶴港到着。しかし、検疫のために上陸できず。
~7月21日 頭のてっぺんから足先まで全身DDT殺菌剤の散布により消毒~みんな全身真っ白になる。
次に、全員お尻を出しガラスの棒を肛門に差し入れ検便検査を行う。
7歳8ヶ月のじゅっぺちゃんも嫌な思い出として残っているが、今回改めて兄寿一(88歳)・姉寿々子(86歳)にも聞いてみたところ、二人とも『恥ずかしかった』ことをはっきりと覚えていました。
特記:
澤地久枝さんの著書『昭和とわたし 澤地久枝のこころ旅』
(文春新書)より。澤地久枝さんが16歳で奪われた「人間の誇り」を下記のように述べています。
『満州で約1年間の「棄民」生活を送り、昭和21年9月、満16歳の誕生日を迎えるころに帰還船で博多港に着いた。船上検疫を終えなければ上陸できない。幕一枚ひかれていない甲板上で、実験動物のようになって、
検閲官の前にうしろむきで下半身をさらす。
ガラス棒で検便用の便をとられたときに「最後の『人間の誇り』ともいうべきものが崩れ去っていった」と回顧している。』
注! DDTは今日では使われていません。人体に有害物質だとわかり、健康を害するので使用中止となりました
~7月24日 妹(三女)寿美子死亡。
日本に着いたのに下船できず、高温の船室と、消化できないニシンの干物とトウモロコシ粉のパン。母親の母乳も出ず。
最終的な寿美子の病名は船室高温状況での『脳膜炎』でした。
写真1枚残さず。
生後10ヶ月の妹(三女)寿美子は亡くなりました。
母豊子の慟哭の中で描いたデスクマスクの鉛筆画が唯一寿美子を残す。
~7月25日 ようやく舞鶴港に上陸。舞鶴にて寿美子の火葬。
~7月26日 舞鶴発・・・京都駅(夜中通過)・・・東海道~
~富士駅乗り換え~身延線で富士宮へ向かう。
⑦ 1946年(昭和21年)7月27日
祖父信太郎の待つ富士宮市野中東町300番地に帰国。
皆、疲労困憊の末に24時間ただ眠る。
この日から、塩川ファミリーの日本の戦後が始まります。
そして1953年(昭和28年)4月野中保育園開園となります。
これをもちまして、「大地保育ものがたり」以前の、
じゅっぺ教授のファミリーストーリーは終ります。