第114話:私は小さな引揚
—じゅっぺちゃんの戦争への思い・平和への思い—
【特記】 2023年8月13日(日曜版)の岳南朝日新聞社
「特集:夏の思い出」に掲載された原稿に1部加筆したものです。
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⓵私は奉天で生まれました
私の戸籍は、満州国奉天市高千穂通り8番地です。
誕生日は1938(昭和13)年11月26日です。現在84歳になりました。
敗戦の1945(昭和20)年8月15日から満州難民生活の後。
日本へは敗戦から翌年の1946年(昭和21)年7月27日、
祖父塩川信太郎の待つ富士宮市野中東町300番地に帰国しました。
なお、
厚生省(現厚生労働省)の満州引揚死亡者名簿に、
私たちの家族では母方の祖母【林ツウ】と、
私の妹【塩川壽美子】の名前があります。
②私は7歳8ヶ月まで満州生まれの満州育ち
旧国鉄に勤務していた父塩川寿介は1937年に満鉄勤務を命ぜられ単身で渡満。
翌年1938年5月母塩川豊子は長男5歳3ヶ月、長女2歳10ヶ月、妊娠6ヶ月の
お腹の中の次男私を連れて、博多港から朝鮮の釜山港に上陸。
そこからは汽車で朝鮮を通って満州国奉天駅へ。
そしてマーチョ(馬車)で用意されていた満鉄官舎に到着。
私はその年11月26日にその家で生まれました。
奉天市にあった羽仁もと子先生設立の自由学園「幼児生活団」に
4歳入園~6歳卒園。
そして父の転勤で通化市に移り、
私は昭和20年4月1日、通化小学校1年生に入学。
ところがその頃になると戦況も政情もおかしくなり、
ラジオニュースを聞く大人たちの不安な怯えた様子が
子どもたちにも伝わるようになりました。
私は入学式に父親と登校したきり、
その後1日も通化小学校に通う事はありませんでした。
③敗戦、そして逃避行始まる
8月15日、日本国敗戦。
あちこちで暴徒による日本人襲撃が始まりました。
生活のすべてを捨てて通化市脱出。
1945年 9月27日なんとか四平街まで脱出。
以後、
1946年7月6日の引揚げまで日本人居留区での難民生活が始まりました。
満州国四平街市若葉区南2条40番地に満鉄社員の知人の松崎家と同居。
松崎家8人家族。塩川家7人家族。さらに避難してきた若夫婦2人。
17名が4 LDK(約90㎡)の家に暮らす。
お風呂はなく。外庭のドラム缶風呂を17人共同利用。
お風呂は1週間に1回。石鹸は不足がち。お水もお湯も不十分。
そのような中で17名交代でドロドロのお風呂に入りました。
大陸の夏の暑さ。凍える冬の寒さの中のドラム缶風呂でした。
④満州難民生活
日本の敗戦とともに、蒋介石の国民党軍と
毛沢東の八路軍の国共内戦が始まりました。
私たちの住んでいる四平街は軍事的に重要な要衝の鉄道拠点で
両軍の激しい攻防戦の真っ只中で、
約1年間の満州難民生活を強いられることになりました。
銃弾や砲弾の飛び交う中での生活でした。
布団を窓に立てかけて銃弾を防ぐ生活。
畳を上げて床下にシェルターを作りました。
両軍の激しい戦闘の日には17名が4 LDKの床下のシェルターに逃げます。
「狭い」「にぎやか」「暑苦しい」の、想像もできない暮らしでした。
⑤兄が貫通銃創『やられた!』
小春日和に誘われて、子どもたちが塹壕の土手で遊んでいると、
突然、自動小銃の音がして銃弾がバリバリ飛んできた。
兄が『やられた!』叫んで倒れた。
『兄ちゃんがやられた!』と、
私は悲鳴をあげながら助けを求めて家まで駆けました。
兄は頭を撃たれ血だらけになって戸板に乗せられて、
大人たちの手で救い出されました。
意識もなく2週間も昏睡状態で生死を彷徨ましたが、
幸い日本人居留地にいた元軍医の治療を受けて一命を取り止めました。
戦場でしたから3人以上の集団の外出は禁止されていましたが、
子どもだから良いと思って8名で遊んでいたら撃たれました。
⑥二度と見たくない腐った兵士
両軍の激しい打ち合いの後、両軍が立ち去り、打ち合いのないある日。
狭い家にじっとしていられない子どもたちは駅前の公園に遊びに行きました。
公園といっても手入れされていませんから草ボーボーのジャングルです。
私は草の中の滑り台を見つけて近づきました。
ものすごい悪臭と蝿がヴァーンと舞い上がりました。
残された腐った兵士の死体でした。
恐怖に震える上がり、私は一目散に逃げ帰りました。
⑦ウクライナを思う
ロシアの侵略によりウクライナ全土が焼け野原になっている。
私は逃げまどったあの満州難民時代の思い出が重なって悲しくてやりきれない。
第一の誤りは「武力によるロシアのウクライナへの侵略」だ。
第二の誤りは「核を使用する」と言ったプーチンの誤りだ。
日本は太平洋戦争の誤りを反省したから平和憲法を作り。
唯一の被爆国だから反核運動の役割を果たしてきた。
いまこそ「武力による侵略」と「核使用禁止」の国際世論と
国連機能の強化を日本がリーダーシップを取って、
世界平和を確立しようではありませんか。