大量の悲しみをだしきった後に入ってきたのは、気づきとそれからもたらされる癒しだったー。
 
ここ数日でおこったことがあまりにも大きすぎて、まるで何年分かの経験をしたような気がしています。
かなり久しぶりの更新なのですが、この経験をかきとめておきたくて投稿することにしました。
起きたことをそのまま綴った今回の記事と、それがどういうしくみで起きたのかを考える次の記事と続きになっています。
 
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今日、18年連れ添った猫を荼毘に付してもらい、土に還すための骨壷に入れてもらいました。
私が愛して愛してやまない存在の猫、カルちゃんは、8月31日、夏が終わり、季節が入れ替わる日に天に帰りました。
この世の終わりみたいに嘆き悲しんだはずの私が今は穏やかにカルちゃんのいないこの世界を受け入れています。
その変化が劇的すぎて自分でも不思議なくらい。
ここではそのことをできるだけそのまま書いていこうと思います。
ペットや、愛する人と別れて悲しみの渦から抜け出せていない人に届くといいな。
 
「にゃーにゃーにゃー
にゃーにゃーにゃー」
 
カルちゃんはここのところ数日断続的にないては部屋をぐるぐるしている。
以前から時折夜泣きをする癖があったので今回もそれかと思って、お水をあげたり餌を新しくしたり、一応原因を探ってみたけど一向にとまらない。
ただ、うろうろ歩き回っているので、体が悪そうにも見えない。
結局夜も泣き続けるので私もなかなか寝られず疲弊していった。
 
カルちゃんが泣き始めて三日目、夕方私が帰ってくると、カルちゃんが泣いた後に、力尽きて突っ伏している。
明らかに様子がおかしい。
私はやっとカルちゃんを病院に連れて行くことにした。
カルちゃんは18歳と高齢なものの、普段から大病もなく、いたって健康だったため、病院にいくことはほとんどなかった。
それに今だと20歳以上生きる猫だってざらにいる。
カルちゃんだってお迎えがくるのはもう少し先だと思っていた。
近くの動物病院に走るもしまったあとで、他の場所で友人と会っていた旦那さんに慌てて電話して、救急動物病院へいくことを告げるとすぐに帰ってきてくれた。
 
動物病院へ向かうタクシーの中、まばたきも動きもしないカルちゃん。
 
「カルちゃん死んじゃったの…?」
 
 
実際には、まだ息はあり、集中治療室で次の日まで診てもらった。
腎臓の数値がすごく悪いこと、そのせいでかなり脱水状態がすすんでいること。
1日たってもまだ数値が安定しないこと。
 
それを告げられ、今度は近所の動物病院に入院することになった。
 
動物病院では、一日中点滴してもらい、腎臓の数値は正常に戻ってきた。
毎日お見舞いに行ったけれど、数値が正常になっているのに、カルちゃんはとてもぼんやりと寝ているだけで、瞳に生気がなかった。
だんだん意識が戻ってくるはずが、逆に遠のいているように思えた。
三日目のお見舞いの日、腎臓は正常値に戻ったので、あとは食欲がでてくれば、退院も考えていけるというお話しがあった。
ああやっとカルちゃんと家に帰れる、そう思った。
その日カルちゃんは、首に力が入らないらしく、私の方を見る気力はなかったけれど、呼びかけに応じて小さく「にゃ」とだけないた。
 
次の日の朝、留守番電話が入っていた。
 
「カルちゃんが今朝なくなりました。朝みたときにはすでに冷たくなっていて…」
 
え、なんで、これからよくなるんじゃなかったの?
いきなり死んじゃったの。
 
私は突然、愛する存在がそばにいる世界からいない世界に移動した。
 
病院に行くと、別室でダンボールの棺に入れられたカルちゃんが寝ていた。
 
動かないカルちゃんを撫でる私。
「カルちゃんは〜」
獣医さんが説明してくれる言葉が入ってこない。
 
崩れ落ちそうになる自分を保とうとしてぎりぎり
「ありがとうございました」
というのが精一杯。
 
棺が思ったよりも大きく、カバンに入らなかったので、手で抱えて徒歩5分ほどの距離を歩いた。
 
その道のりは私にとって、まるでこの世の終わりのようだった。
 
信号待ちでも、他に人がいても涙が止まらない。
 
「わぁぁぁぁ…」
 
声に出して泣いてしまう。
 
何千メートルにも感じた道のりを歩いて自宅に戻る。
実はこの日から旦那さんは出張で3日間は戻らない。
 
誰もいない部屋でカルちゃんの棺をいつものお気に入りのクッションの上に置く。
 
「帰ってきたよぉぉ、カルちゃぁぁぁん」
 
もう涙でぐちゃぐちゃ。息もつまるほど。
 
本当は、カルちゃんの遺体を旦那さんが戻ってくるまで保つために、涼しい部屋で保冷剤で冷やしてあげないといけない。
留守電を聞いてから、カルちゃんを引き取りにいく間に旦那さんが業者に連絡して、ペットの火葬を次の火曜日に予約してくれていたのだ。
 
クッションの上から棺を移動させるのも、号泣。
保冷剤を取り替える時も号泣。
 
金曜日1日で多分これまでの人生で泣いた分を超えるくらい泣いた。
 
泣きながら言った
「カルちゃん、光の方へ行くんだよ…。光の方へうぁぁぁぁ」
やっぱり声にならない。
 
ペットが亡くなった時、飼い主があまりに悲しんでしまうと、ペットはそれが心配で天国へいくことができないときいたことがあったからだ。
だから、天国の方へ進むように言わなきゃいけない、そう思っていた。
 
カルちゃんを天国へ行かせないといけない。
カルちゃんを離さないといけない。
 
そう思う度
 
いやだよー、カルちゃんといられない世界なんていやだよー
まだ一緒にいたいのに
 
と心が抵抗する。
 
部屋に一人なのをいいことに、いやだいやだと泣き叫んだ。
 
少しでも心を落ち着けたい、救いが欲しいと、以前に読んでいた、ペットの死について多くとりあげている塩田妙玄さんの漫画をまたよむことにした。
私はこの漫画のことを知っていて、本当に恵まれていたと思う。
(Kindleでサンプルが読めるので、本当におすすめです。 ペットを飼っている人、ペットとの別れを経験した人、みんなに読んで欲しい本です http://amzn.asia/d/j8MH2vh
 
妙玄さんは密教のお坊さんであり、カウンセラーであり、動物の保護施設のスタッフでもあり、その独特の死生観で、ペットと飼い主の絆、ペットの死後の世界について語ってくれる。
 
妙玄さんによれば、ペットロスで苦しむ人は、ペットの不調に気がついてあげられなかった、あれもこれもしてあげられなかったと後悔の念に苛まれ続けるという。
 
かくいう私も、
なぜもっと早くカルちゃんを病院につれていかなかったのか、
もう1日早かったら、
もっと定期的に病院にいっていればよかった、
病院で一人でいかせてしまった、
 
などなど、後悔が波のようにおそってきて、完全に飲み込まれていた。
 
妙玄さんによれば、ペットにしてあげたいことをイメージの中でしてあげたり、天国にいったペットがどうやってくらしているのかを想像した絵を描いたりするのも立ち直るのに役に立つという。
 
目を閉じて天国のお花畑で、カルちゃんが楽しんでいるのを想像して…と、
 
なかなかうまくいかない。
 
すると目の裏で弥勒菩薩の銅像とその下にいるカルちゃんが、すすすすーっと遠のいて行く像が浮かんだ。
 
あっ、行かないで!
 
思わず目をあけた。
もうどうにもこうにもいかなくなり、それを絵に描くことにした。
 
それがこちら。
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もう、悲しみしかつまっていない絵。
途中何度も涙で視界が狭まった。
 
カルちゃんの体を冷やしておくために、寝室は冷房を強くかけていたので、リビングのソファで寝た。
その夜は数時間ごとに目がさめた。
 
朝5時に目がさめて一番先に浮かんだことは
 
「この世に何も楽しいことなんてない」
 
だった。
思ってすぐその後で「えっ、そんなはずはない」と思い返したものの、そんなことを自分が思ったということに衝撃をうけた。
 
カルちゃんがいなくなっても花は咲くだろうし、季節だってめぐる。
きっと世の中には私の知らない美味しいものだってたくさんまだあるだろう。
 
なのに、「楽しいことなんてない」と目覚めた瞬間思った私の心の体力はゼロに近かった。
今思えば「心の臨死状態」だったのかもしれないと思う。
 
線香を絶え間なくおそなえして、何か救いになることはないかと、妙玄さんの本を読む。
カルちゃんの体を冷やすドライアイスが届けられたので、泣きながら棺に入れると、なんとか気分転換しようと外へでる。
 
味のしないランチを終えて、自然に触れたらちょっとは心が落ち着くかもしれないと、芝生のある公園へ向かった。
その途中雨が降ってきてしまい、近くのファミレスに入った。
 
そこでも、藁にもすがる思いで、絵を描いた。
お店の中でも泣きながら描いた。
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カルちゃんは生前は完全なお座敷猫で他の猫との関わりがほぼなかったので、お空の上では仲間の猫と一緒に観音さま(菩薩?)に守られてゆっくりできているといいなと思って描いた。
 
やっぱり観音さまなら蓮の花かなと思って、画像を検索して蓮の花を描いていると、少し心が癒された。
もっと蓮の花が描きたくなった。
 
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もう一枚描いた。
今見ると、カルちゃんと観音さまより蓮の花のがよくかきこまれているくらい。
 
蓮の花をたくさん描いているうちに雨がやんだので、店を出て当初行くつもりだった公園へ向かった。
 
到着するときれいに造成された芝生の上に裸足になって足を投げ出した。
風がさわさわとふいて頰にあたる。
こんな悲しいことがあっても風は吹くし、少なくともそれが感じられるってことは感覚がちゃんと残ってるってことで。
よかったなぁ。
 
そのままその場で、公園にくる孫を遊ばせにくるおじいちゃん、犬の散歩にきて挨拶を交わす人たちを眺めていた。
 
その間も、風はそよぎ、花に蝶がとまっていた。
 
ふと、携帯でフェイスブックを見ると、「知り合いかもしれません」の提案のユーザーの中に、なぜか蓮の花の写真をプロフィール写真にしている人が表示されていた。
 
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えっ、蓮を検索したからって、その写真をプロフィールにした人を提案にするようなしくみ、フェイスブックにはないよね?
 
偶然にしてはできすぎている。
 
私は気になって、蓮の花の意味を検索しはじめた。
 
すると、その中で、蓮を使った言葉で一連托生という言葉の意味を説明している文章を見つけた。
 
ー一連托生というのは、死なば諸共みたいにネガティブな意味に使われがちだけど、元々は「極楽浄土の蓮の花の上で生まれる」という意味ですー
 
 
蓮の花の上で会いましょう。
 
 
私にはそれが何かのメッセージに思えてしょうがなかった。
 
その言葉を何度も反芻していると日が暮れてきたので、公園を後にして自宅へ戻った。
 
家に戻ると先程より少し気力が戻ってきた気がしたので、以前より道に迷ったり、アドバイスが欲しい時に行なっているタロットカードをやることにした。
 
ききたいことは
 
カルちゃんのことで、もっと早く病院に行けばよかった、一人で死なせてしまったと後悔していることについてどうしたらいいか
 
ひいたカードはこちら
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実はこの並び、かなり珍しい組みあわせ。
私のやるタロットカードのやり方は、左から過去、現在、未来と一枚ずつひいて、それが正位置(頭が上)逆位置(上下ひっくりかえっている)かでみる。
逆位置ならそこに問題ありだから、そのアドバイスとなるカードをさらにひく。
 
ということは、3枚全て正位置ということは
「そのままで問題ない。
あるがままでよい」
 
ということ。
 
その結果も滅多にないことなので驚いたけれど、それよりも私が目を奪われたのが、一番左の「力」のカード。
これは犬かオオカミみたいな動物が描かれていることから、ペットの意味があるが、私は一目見て、私とカルちゃんが遊んでいる絵に見えた。
 
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「過去には問題がない、あなたたちは充分愛し合っていた。」
 
 
カードがそう言っている気がして、一気に私に癒しが訪れた。
 
それはもう大変な量の癒しで、それまで状況に翻弄されてどこかへ行っていた私自身が、私の肚のところへ戻ってきたように感じた。
 
どーん。
 
悲しみではなく、気づきと癒しで涙が止まらない。
 
これまで悲しみをだして、だして、だして、空いたスペースにどどどーっと癒しがなだれこんできたかのようだった。
 
さらに私はカードと心の中で話をしてみた。
これは独特なスタイルなんだけど、自分との対話、内観のために、イメージの中で話し相手をつくって心の中で会話をするというもの。
自分で自分と話すのってなかなか続かないので、イメージ上でも誰かと対話している形式をとるときちんと会話になりやすいのだ。
 
そこで、私の好きな13のカードの中の死神さんとお話しをすることにした(このカードのもつ意味である「変容」が好きなのです)。
 
後悔していたカルちゃんのなくなる間際のことは、
ずっと一緒にいて愛を交換してきた日々からとらえるとその一部にすぎないこと
変化が正であり、生である
カルちゃんと私の関係性も変化していくのが自然な流れ
この世とあの世、三次元に生きるものとそうでないものと、関係性が変化した、それが自然なこと
 
 
結局は自分で自分に答えているわけだけど、対話しているうちにどんどん自分が落ち着いていくのがわかった。
その心の変化は本当に劇的で、その朝瀕死になって散り散りになっていた心が、ふーっと中心に戻ってきた。
隠極まって陽となった、ともいえるのかもしれない。
 
その日あまりにも私が落ち込んでいたので、用があるので夜遅くなるけれど顔だけでもみるといってきてくれた友人にも(本当にありがたい)、心配したけど普段の私だった、と言われたほど。
 
その後は、あれだけ「カルちゃんがいない現実をうけいれなきゃ」と足掻いていたのに、しようとしなくても、それを認めている自分がいた。
私が世界で一番受け入れたくなかった「愛するものがそばにいない世界」をみとめている自分がいた。
 
その心の変化は外からは見えないかもしれないが、私には奇跡としかいいようがない変化だった。
 
その後は時折寂しさは感じるものの、カルちゃんを冷やすドライアイスを交換する時も泣いてしまうことはなく、旦那さんが帰ってきて、葬儀場にいくまで、きちんとカルちゃんの魂を入れていてくれた器である体を保存することができた。
 
葬儀の日は向かう途中で激しく雨が降った。浄化の雨だと思った。
 
火曜日葬儀場で釜の前で最後のお別れをする時も、離れるのがいやだという涙ではなく、こういったペットを見送る場所を提供してくれる人たちがいて、スタッフさんもとても真摯にあつかってくれて、感謝と暖かさで涙がでた。
 
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その日の夕方屋上に上ると、夕日の色がきれいに見えた。
あれだけ悲しんだ後でもその色を美しいと思うことができる、それだけでも、奇跡だと思った。
こんな静かな奇跡もあるものなんだと。
 
今は、カルちゃんのことを思い出しても、本当に感謝しかない。
たくさんたくさん愛してくれてありがとう。
 
今回、私はびっくりするほどの短時間で悲しみ、受け入れ、立ち直ることができました。
それはなぜなのか、いつものこころのつべこべで、気がついたことを次の記事で書いていこうと思います。