逃亡(10)

 

その日、ウルナー湖面は穏やかだった

 

風がないので

ヴィルはオールで舟を漕いでいる

 

いつものようにフェンリルが船首に立ち

舟の航行を監視している

 

舟の後ろには

シュヴィーツのハンス・シュタウファッハーに

試してもらうチーズが分厚い綿布で覆われている

 

きょうは予期せぬ船客がふたり

その後ろに小さく寄り添っていた

 

「それでゲオルグを倒れたままにして逃げてきたんだな」

 

舟を漕ぎながら

ふたりの話を最後まで聴いたヴィルはいった

 

「恐らく、あいつは死んでないだろう」

 

と肩をすくめる

 

「そうかな……はてなマーク

 

シュテファンは半信半疑だ

 

何しろ、殴った時の手応えが今でも手に残っている

 

「ああ、心配しなくても

少しの間シュヴィーツで辛抱していたら

ほとぼりが冷めるさ

そうしたら、またエメッテンに帰れるさ」

 

「そうならいいんだけど……」

 

ヴィルの言葉に

マヌエラは救われるようだった

 

二度と戻れないと思ったシュテファンの小屋に

帰れるかも知れない……

そう思うだけで彼女は胸がいっぱいになった

 

しかし、残念なことに、数日後

ヴィルがエメッテンのシュテファンの小屋に行ってみると

小屋は焼き払われ、焼け焦げた廃屋となっていた

 

残っていた家畜もすべて屠殺され

周辺に腐敗臭がたちこめていた

 

「お前が殴ったぐらいで

そんなに簡単には人は死なねぇよ

今、ゲオルグは頭にきて

お前たちを捕まえようとやっきになってるだろうけど

詳しく調べられて困るのは奴のほうさ

だから、この事件は有耶無耶になるはずだ」

 

シュテファンは

マヌエラの手を強く握って微笑んだ

 

 

つづく