イージーゴーイング | イージー・ゴーイング 山川健一

イージーゴーイング

 何年か前のことだ。三十代の女性の友達が、お茶を飲みながら言った。
「急に目の前にカーテンがおりてきたような感じなの。何を食べても、砂を噛むようでちっとも味がしないし」
「疲れてるんだよ。ちょっと休めばよくなるって」とぼくは答えた。
「でも、大切な仕事もあるし」
「じゃあ、その仕事をやってしまってから休む、と。頑張れよ」
 彼女は、曖昧にうなずいた。
 後でわかったことなのだが、彼女は鬱病の初期症状だった。そういう状態にある人に「頑張れ」という言葉をかけるのはいちばんいけないことなのだそうだ。プレッシャーになってしまうからだ。
 それを知った時、ぼくは激しく後悔した。だが、もう遅い。文章を書くことを仕事としているくせに、言葉がある種の物質的な力を内に秘めているのだということを、ぼくは初めて思い知ったのだった。誰かと話す時自分が発する言葉に注意を払うようになったのは、その時からだという気がする。
 考えてみれば、たいへんな思いをしているのは、ぼくの知人のその女性だけではない。こんな時代だ。今日一日を過ごすだけでも、たいへんなエネルギーを必要とする。経済不況で仕事がないとか、株価が暴落したとか、お金の話ならまだいい。貧乏であることを恥じる必要なんて、個人にも国家にもぜんぜんないと思うのだ。
 そうではなくて、これがはっきりとした自分だ、というものがないから不安が生じる。自分らしく生きているだろうか。その前に、自分ってものがここにちゃんと存在しているだろうか。自分と友達を隔てるものが、ちゃんとあるのだろうか? 自分という存在が独特の個性を持っていて、その個性を愛してくれる人がいて、だからこそ生きていく価値がある。それがなければ、生きていく意味なんてゼロだ。でも、そんな個性を自分は持っているだろうか。
 一九五三年に遺伝子というものが発見され、人間もまたコンピュータのように情報の集積にすぎないのだということが証明された。喜びも怒りも悲しみも、単なる脳内現象にすぎない。遺伝子を改良されたジーンリッチと呼ばれる人達が、既に生まれてきているのである。そんな今、はっきりとした自分を感じとるのは至難の業だ。
 ありのままの自分を認める。明日のために今日を犠牲にして頑張るのではなく、今を大切にする。それこそが、もっとも大切なことなのだ。もう、誰も頑張る必要なんかないのではないだろうか。ぼくは、そう思う。
 たとえば誰かが、作家を目指している。でも、なかなか原稿が進まない。この頃ぼくはそんな相談を、よくメールで受ける。何と答えてあげればいいのだろうか。あなたの恋人が深夜電話をかけてきて、会社の仕事がうまくいかないで、いっそのこともう退職してしまいたいな、と漏らす。その時あなたは、どんな言葉をかけてあげればいいと思いますか? 今のぼくなら、こう答えるだろう。
「無理しないでね」
 そんな時にかけてあげる言葉こそが、その人の個性なのだと思う。コミュニケーションがなければ、誰も生きてはいけない。
PS ところでぼくの女友達は、その後ずいぶん良くなっていい仕事をしている。

※「イージー・ゴーイング/悲しみ上手になるために」は10月末に単行本として刊行される予定ですが、その中でこの最初の項目だけは「ダ・ヴィンチ」に掲載され、「君へ。 つたえたい気持ち三十七話」(ダ・ヴィンチブックス)に収録されました。他はすべて書き下ろします。