好きなものをノートに書いてみよう | イージー・ゴーイング 山川健一

好きなものをノートに書いてみよう

 携帯から、こんなメールをもらった。
 差出人は、『君へ。』(ダ・ヴィンチブックス)というアンソロジーに収録された「イージー・ゴーイング」を読んでくれた、高校に通う女の子だ。
「私は自分というものが良く解りません。掴み所が全く無い様に思えるのです。
 それは短い人生しか生きていないからかも知れません。
 でも時々、自分が解らないという不安で一杯になるのです。先生は本の中で「ありのままの自分を認める」「今を大切にする」と書いていらっしゃいました。ありのままの自分と向き合うにはどうすればいいのでしょうか? 過去にとらわれている私はどうすれば「今」を大切に思えるのでしょうか? 忙しいとは思いますが、返事を頂ければ幸いです。」
 ぼくは、こんな返事を書いたんだ。
「自分を知るには、自分が好きなものを列挙していけばいいのではないかとぼくは思います。好きなものが、自分そのものなのです。好きなものがひとつ増えれば、自分の豊かさも増える。難しいことだけれど、嫌いなものを少なくするように努めればいいのではないでしょうか。答になってないかもしれないけれど……」
 携帯メールは限られた文字数しか書けないので、ぼくが彼女に伝えたかったことを、ここにくわしく書こう。
 自分というものがよくわからないというのは、大人も若者も、男も女もみんな同じだよ。ただし、人間というものにはDNAという設計図みたいなものがあり、それから逃れることは不可能なんだ、ということがわかってしまってからは余計に問題が複雑になってしまった。
 さらに若い頃は「これが私の人生だ」という確定的な経験が少ないので、よけいに自分というものを理解するのが難しいのかもしれないね。
 自分、自己というものの輪郭を明瞭に見つけることは、いずれにしてもとても難しい。けれども、自分らしさ、ということになると一気にハードルは低くなる。
「私とは何か?」ではなく、「私らしさとは何か?」と考えると、たとえば一人の十代の女の子の口元にも微笑みがもどるのではないかという気がするんだ。
 ジーンズとスカートとどっちが似合うか。
 ショートヘアとロングとどちらが似合うか。スニーカーとパンプスなら?
 あの映画の主人公は命を捨てて恋人を守る道を選択したが、自分なら?
 自分らしさとはもちろん自分そのものではないが、それらをたくさん集めていくと限りなく自分に近い存在になるのではないだろうか。
 そこでものは相談だが、どうせ自分らしさを集積していくのなら、いい部分を育てていくほうが賢明なのではないか。
 そのために有効なのが、自分が好きなものや好きな映画や音楽、詩や小説をひとつずつ丁寧に思い出していくという方法だ。
 好きな絵、好きな詩、好きな音楽。
 あるいは、好きな学校の科目。
 好きな友達。
 好きな異性。
 そういうものは、自分そのものではないけれど、「自分が近づきたい存在」なんだと思う。好きだ、という気持ちを自分の中で育てていければ、いつの日か「自分」と「好きなもの」はほとんどイコールになる。ぼくはそう思うね。
 たとえばぼくの場合なら、古い自動車や音のいいギター、ブルースやローリング・ストーンズや印象派の絵画、マッキントッシュやゼラニウムやアル・パチーノ、ジュリア・ロバーツ、中原中也や太宰治やファイナルファンタジー7のクラウド……ときりがない。
 こうしたものに出会うために、ぼくは生きてきた。
 人生というものは古い仕事部屋に似ていて、そこには無駄なものや他人から見ればガラクタにすぎないものが大切に保管されている。古い自動車やブルースはもちろんぼく自身ではないが、ぼくのなかのいい部分が心から愛してきたもので、それなしには今の自分というものは存在しない。
 もちろん、嫌いなものを数えるしかない状況というのはあるかもしれない。
 あるいは、そういう時期というものがある。
 でもそんな時でも、ほんの小さなものでかまわないから、好きになれるものを探してみる。心から愛したものや人は、たとえいつかそれを失ったとしても、もはや自分自身と一体化しているものだよ。
 そして大切なことは、好きなものを思い出したら、そのままにせずにちゃんとノートに書いておくこということだ。
(Illustration and Photo by Hiromi)