さようなら、夏木陽介。 | イージー・ゴーイング 山川健一

さようなら、夏木陽介。

夏木陽介は死なないと思っていた。パリダカールに参戦した時も無事の帰還を疑わなかったし、脳梗塞で急遽入院した時も、その後腎臓癌が発見された時にも、彼が死ぬなんてことはまったく考えなかった。今回の、肺炎に始まる一連の入院の時も、死ぬかもしれないなんてまったく考えなかった。

「夏」の太「陽」のような男なのだ、死ぬはずがない。無意識に、ぼくはそう思っていたのだろうと思う。

ぼくらはよく深夜2人だけで夏っちゃんのマンションで会い、3時間でも4時間でも話していた。きれいなお皿で桃を出してくれて、しかしナイフもフォークもない。「ティッシュはそこだからさ」と夏っちゃん。そういう感じだった。ステーキを焼いてくれたことも多いが、付け合わせの野菜はなし。

病院へ入り退院してくるとまた夜中に遊びに行き、ぼくは言った。

「弾丸が飛び交う戦場にいても、弾は夏っちゃんを避けていくんだよ。極悪人だからな。俺もあやかりたいもんだぜ!」

極悪と言われるのを、夏っちゃんは嬉しそうに笑って聞いていた。昨年、パンタに頼まれて夏っちゃんを紹介した時もぼくは言った。

「こちらパンタ。ロックのアイコンだから強面に見えるけど、優しくて誠実で友達思いの、喧嘩なんかしたことがない男だよ 。パンタ、こちらが夏木陽介。本物の極悪人ね。俺の友達には悪い奴が多いけど、夏ちゃん以上に悪い奴はいないからさ」

夏木陽介は、苦笑していたよ。

12月27日に意識を失った時に、初めて「マジかよ…」とぼくは思った。医者にいろいろ説明してもらい、MRIの画像を見せてもらい…それでも意識を取り戻すだろうと信じていたが、今回はヤバイかもなと覚悟を決め始めた。

「俺の悪運も尽きたかもな」
「今度は(自宅のマンションに)帰れないかもしれない」

意識失う少し前に、夏っちゃんがもらした言葉である。夏木陽介は、死を覚悟したのだろうと思う。亡くなった後、部屋を片付けに行ったら腎細胞癌の専門書が置いてあった。まだ新しい本で、それを見るのは辛かった。

夏っちゃんは一度も結婚しなかったが、独身主義だったわけではない。機会があればしてもいいと思っていた。「新婚旅行に行く事にでもなれば健ちゃんと3人で行きたい」と言うので、横光利一の新婚旅行に親友の川端康成が付いて行ったエピソードを紹介すると、それがいいと言って笑った。2人乗りのクルマしかないだろうとぼくは言ったのだった。

夏木陽介は日本を代表する俳優だった。有り体に言えば、スターだった。ぼくより17歳も年上で、こちらが中学生の時既に彼の名前を知らない日本人のほうが少なかったろう。

でも、そういうのは関係なかった。夏木陽介はぼくの最愛の友達で、どんな些細な嘘をついたこともなかった。45年の付き合いで、お互いに気が短くあちこちで殴り合いの喧嘩をしていたのに、ぼくら2人は口喧嘩したことさえなかった。夏っちゃんは、高校の時、3人の教師を殴ったことがあるのだそうだ。俳優になってからも喧嘩は絶えず、でもやがて大人しくなった。理由を聞かれると「だって、殺しちゃうだろ?」とのことだった。

夏木陽介は死なないと思っていた。でも、逝ってしまった。死んで、少年のようにイノセントな存在になった。なんだよ、ふざけんなよ、ズルいよ。残された俺が1人で極悪人をやらなきゃいけないのかよ。そんなの無理だって…。

死なないと思っていた夏木陽介が死んで、ぼくは生まれて初めて自分の死について考える。死ぬことは、別に怖くはない。夏っちゃんも、辛いとは思ったろうが怖くはなかったろうと思う。

死ぬことではなく、その瞬間まで夏っちゃんなしに1人で生きていくことが、怖くてたまらない。

夏っちゃんはよく電話をくれた。メールをくれた。会おう、会いたい、飯を食いに行こうよ、と言われた。3回に2回は断った。山形と東京の往復で、なかなか時間が取れなかったからだ。後悔している。もっと会えば良かった。クルマで20分の場所に夏っちゃんがいるということが、どれほど大きな支えだったのか。ぼくのやらかしたバカ話に心の底から笑ってくれるのは夏っちゃんだけだった。失ってみて、夏木陽介の大きさに圧倒されるばかりだ。これから、どうすばいいのだろう。

きっと、今、多くの人が同じような気持ちなのだろう。

太陽は沈んでしまった。
だがそいつは、しばらくの間は、余熱でこの地上を温め続けるだろう。

さようなら、夏木陽介。
安らかに眠ってください。