カムパネルラと孤独なジョバンニ
新幹線が米沢を過ぎ、ぼくは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』について考えている。孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする童話だが、これはもちろん死の国へ向かう鉄道ということだろう。
作中にクルミの化石を拾うエピソードがあるが、東北芸術工科大学の宿舎の近くの川辺にもクルミがあって秋には実が落ちる。クルミの実を見る度にこの童話を思い出す。
天上と言われるサウザンクロス(南十字)で、大半の乗客たちは降りてしまうが、ジョバンニとカムパネルラは残される。二人は「ほんとうのみんなのさいわい」のために共に歩もうと誓うのだが、車窓に現れた石炭袋見て恐怖に襲われる。ジョバンニはカムパネルラをはげますのだが、カムパネルラは「あすこにいるの僕のお母さんだよ」と言い、いつの間にかいなくなってしまうのだ。
一人丘の上で目覚めたジョバンニは町へ向かうが、「こどもが水へ落ちた」ことを知らされる。川に落ちたザネリを救ったカムパネルラが溺れて行方不明になったのだった。
ぼくらは普通ジョバンニの視点でこの作品を読むだろう。行方不明のカムパネルラ、失われたカムパネルラ、死の国へ旅立ってしまったカムパネルラを探し求める。
だが、ぼくはこの頃思うのだ。自分の方がカムパネルラなのかもしれない、と。
誰か大切な人にとって、自分の方が行方不明になってしまっているのかもしれない。銀河鉄道の車窓を見ているその大切なジョバンニの背中を探し出し、繋ぎ止めなければならないのではないだろうか。東北の冷えた空気は、そんなことを考えさせる。福島駅に着いたよ。
(9月15日のツイッターより転載)