ダニエル・デイ・ルイスが、私の知る限りノミネートされた全てにおいて主演男優賞をとった映画「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(あとサターン賞をとれば全制覇のはず)。
それにしても何故この同じ映画から俳優部門でのノミニーが誰もいないのだろうと不思議だった。
あのハビエル・バルデムが助演男優賞をとりまくった「ノーカントリー」でさえ、アンサンブルキャスト賞という形で他のキャストの力演が評価されているというのに。
その疑問は映画を見たことで氷解した。
この映画の主要登場人物はたった一人、主役のダニエル・プレインビューだけだからなのである。
もちろん他にも登場人物はいる。
だが、ダニエルと深い心の交流のある人物は誰もいない。
だからそこに居る人々はダニエルの人生にとってただの脇役、映画の中でもそれ以上の存在感をもって迫ってきたりはしないのだ。
血が繋がっていようといまいと、苦楽を共にしていようといまいと、等しく誰もダニエルの心の中には入れない。だから観客も彼に感情移入することはできない。
しかし彼の行う全ての事に普通の観客は圧倒される。
石油をあてて一儲けしようという彼の凄まじい執念の前には生半可な感情等通用しないのだ。
目的のためなら手段は選ばず、遂行のために手間を惜しまず、倦まずたゆまず努力の手を休めないその熱意。
独立系の誇り高く、メジャーに身売りするのを潔しとしないその気骨。
それは仕事熱心な男の一代記だ。
物語というよりはまるでドキュメンタリー。
「男は……」という田口トモロヲのナレーションが入ればそのまま「プロジェクト裏X」になる。
それは、仕事で成功するための秘訣が「良心を捨てることだ」と見事なまでに歌い上げてくれる、地上で堕ちたる星の生きてきた道。
アメリカンドリームを実現するという事は、裏に回ればでこんなに汚いことなのだと見る者に教えてくれる。
この映画ではダニエルは糾弾されない。
肯定されることもなく、ただ石油と泥と血にまみれた仕事熱心な男の人生を淡々と追っていくだけなのである。
そうすることによって、この100年程前の男の生き方を通じて現代のアメリカが抱えている病根を深くえぐるのだ。
「仕事」のためならば他の何を犠牲にしてもいいのか?
アメリカ人(の男)が「仕事」によって得たいと望むものは金と権力と名声だが(そのどれかがあれば女は勝手に寄ってくる)、この映画の恐ろしい所はダニエルが何を望んでそんなに仕事に打ち込むのかその動機が分からない点なのである。
それではまるで、彼は仕事がしたくて仕事をしているようではないか?
仕事の先には金があるから、一応は金が目的なのだろう。
だがそれさえも、仕事をするための後づけの動機のようにしか思えないのは、ダニエルの中に金を手に入れたら何をしたいという明確な目標が見えないからなのだ。
彼の最終目標は恐らく「誰よりも仕事のできる男になること」なのだろう、他の誰かに勝ち続けることによって。
彼の幸福は、「仕事」をすることそのものにあり、その結果得る物にはないのである。
ダニエルの「仕事」とは、要するに効率よく利益を上げること。
それは現在の経済社会が「仕事」に求めるものと同じ、飽くなき利潤の追求である。
その「仕事」を最優先にする社会に歪みが生じないわけはない……。
「仕事」が大事だと思っていた自分の考え方を、その根底から揺すぶられたような気がした作品だった。
まあ、だからオスカーでは作品賞がとれなかったのだろうというのも納得がいくわ。