*リンクがあるのはレビューがあるもの。索引から飛べます。


・「スパイダーウィックの謎」字幕版 


・「紀元前1万年」 


・「ミスト」  


・「ハンティングパーティー」 


・「最高の人生の見つけ方」 


・「ロード・オブ・ザ・リング 旅の仲間 SEE」


・「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔 SEE」


・「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還 SEE」


・「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」 


・「ナルニア国物語第二章 カスピアン王子の角笛」 


・「イースタン・プロミス」  


・「ランボー 最後の戦場」    


・「幻影師 アイゼンハイム」 


・「マンデラの名もなき看守」 


・「幸せになるための27のドレス」 



何度見ても落涙してしまう「ロード・オブ・ザ・リング」3部作。スクリーンで見るのは格別である。フィルムがかなり傷んでいるのが惜しまれる。


「ロード」で私が惚れ込んだのはレゴラスだったけれど、でも原作の段階ではアラゴルンが好きだった。王になる運命をその身に引き受けた男。生まれついての王様。


その王様を演じたヴィゴ・モーテンセンの作品でようやく日本公開に漕ぎ着けた「イースタン・プロミス」。試写会で見たのだが、今月お金を払って見たどの映画よりもおもしろかった。


そしてしみじみ思った。

私は王様が好きなのだ、と。


実は昔から「白馬に乗った王子様」にはあまり興味が持てなくて自分には無縁の存在だと思っていたのだが、それは子ども向けの物語やディズニー映画に出てくる王子様はいつまでも王子様のままで決して王様にはならない存在だったからなのだと勝手に納得したりして。


はい、そうです、レゴラスは立派な王子様です。

でも私が彼を好きになったのは王子様だからじゃなくて、アラゴルンの友として常に行動を共にする戦士としてのレゴラスだったので。王子としての振る舞いはほとんどなかったですからね、映画の中では。


だから「ナルニア第二章」を見ても頼りないカスピアンより王として振る舞うピーターの方がかっこよく目に映ったものだ。この王様はまだ若いのでいろいろ間違いも犯すし、失敗もするけれど、それでも最後まで王としての誇りと努めを忘れない。カスピアンは彼を見て王になる道を見いだすのである。


ここでいう王はファンタジーの中の理想の「王」だから、自分の国と民のために喜んで自分の身を投げ出す王なのである。「ロード」では私利私欲を全て捨てた時、初めてアラゴルンはまことの王となるのだ。それは「ナルニア」のピーターも同じ事で「長男」だの「俺は偉いんだ」だのという自意識を捨てた時にナルニアのまことの王としての力が甦り、アスランの力を借りることができるのである。


これはヨーロッパの話だが、「王」に要求される私利私欲自意識の捨てっぷりは「仏陀」とそう変わりはないと思う。その後国を統治すれば王になり、飽くまでも解脱を求めれば仏陀になるということか。



何故「王」が必要か。

それはすぐれた精神敵指導者がいないと、国というものがまともに成立しないからである。

サ行の3作を除くと、今月見た映画は人間には統一国家が必要で、それにはすぐれた指導者が不可欠であると訴えているような作品ばかりだった。


その中でもっとも理想的な指導者を教えてくれたのが「マンデラの名もなき看守」。実話が元になっているだけに、綺麗事だけでは終わっていない。黒人側のテロ行為で白人の子ども達が何人も死んだこともちゃんと語られている。武力闘争が避けられない状況があるとマンデラに語らせながら、しかし同時にそれを回避する道も探ることができるのなら、人間はまだまだ捨てたものではないかもしれないと思わせてくれた。


そのために必要なのは、子ども達への教育である。

「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」はそれを怠ったばかりにアフガニスタンはタリバーンが支配する国となったのだと苦い反省を私達に伝えてくる。


とはいえ、学校で教育を授かったからといって、非常時に人間が常に理性を働かせられるわけではないということも事実である。

「ミスト」が恐ろしいのは、さらにその理性が人を追い込む場合があるという部分まで踏み込んで描いているからだ。


「ランボー」や「ハンティングパーティー」では、アメリカ人がアメリカでのほほんと受けた教育は言葉の通じないところでは無意味であると言っているようだ。その土地の言葉を話し、その土地の文化を理解しなければ相互理解は生まれない。英語が世界で通用するからといって、世界中がアメリカなわけではないのだ、今の所は。


この二つの作品は、世界の中で見過ごされがちな(あまりアメリカとは現在関わりのない)紛争地域のことを教えてくれる。歴史があまりにも早く移り変わる現代に生きていると、10年ぐらい前のことなど忘れてしまうということも。


「紀元前1万年」になると、はるか昔を描いているようで、実は現在のアメリカを一種風刺した作品に仕上がっている。今のアメリカがやっていることを、エメリッヒは決して快く思っていないと言うことがよくわかる。他人の土地から収穫物と労働力を搾取して自国の虚栄心に費やす者達の末路が描かれていて、なかなか爽快だった。