「ザ・マジックアワー」公式サイト


しばらくテレビで三谷幸喜を見ない日はないという程の熱心なプロモーション活動に心を打たれ、つい1ヵ月前には見る気もなかったこの映画にしっかり初日から行ってしまった。


だってNHKの「サラリーマンNEO」や「英語でしゃべらナイト」にまで出てるんですよ、三谷さん。「NEO」では御自身でコントまで演じて。これは見ねばなりますまい?


いざ映画を見始めて、最初の内はサービスカットばかり多すぎるんじゃないの~なんて斜に構えていたのが、物語が転がりだし西田敏行と佐藤浩市のかけ合いのシーンになってからはもう爆笑に次ぐ爆笑で笑いすぎておなかが痛くなってしまった。腹の皮がよじれるというのはこのことか。


「ゴッドファーザー」のドン・コルレオーネを演じたマーロン・ブランドになりきった西田敏行のビジュアルだけでもおかしいのに、そこに佐藤浩市が演じる売れない役者のいかにもこれじゃ売れないだろう的な大仰な演技が加わるとおかしさが倍増するのである。

この二人の演技の上手さが群を抜いているものだから、妻夫木君の印象がこの後どんどん薄くなってしまうのが気の毒だった(「有頂天ホテル」の香取慎吾とつい印象が被ってしまったりして……)。


三谷幸喜の作品のプロットには大抵口から出まかせのウソをついてその場を切り抜けようとする、根は悪くないんだけど気弱な人間が中心にいて、残りはその憎めない主人公を義理堅く助けるグループと主人公の出たトコ勝負のウソを信じてとことん振り回される複数のグループとに分けられる。


「マジックアワー」では気弱な主人公が妻夫木君ではあるのだが、振り回されてしまう佐藤浩市の方も立派なヒーローだった。もう一つの振り回されるグループは西田敏行率いるギャングなので悪役ということになるのだろうが、三谷幸喜作品に悪役はあっても悪人は出てこない。この映画で一番の悪人はちらっと出てくるだけの香川照之だったかも。


さてこの騙されているグループは、それぞれ違うウソを信じ込まされているわけで、観客にはそれが分かっているのだが登場人物達はまるで分かっていない。分からないまま、本質的に食い違っている内容の会話が何故かそれなりに繋がっていくのだが、それがいつどこでどうやって破綻するのか……というのが観客の心にスリルを生み出し、会話のすれ違いぶりが笑いを呼ぶのである。


この辺りのかけ合いの抜群の上手さが三谷脚本のマジックなのだが、それを西田敏行と佐藤浩市によって演じられると悶絶する程おもしろいシーンになってしまう。舞台と違ってカメラワークで様々な表現が使えるからで、これは映画監督としての三谷の力量と言えようか。俳優達から抜群の演技を引き出すのも監督の力だそうだし。



脚本家としての三谷は映画の中で登場人物達に映画はスタッフあってこそのもの、映画の製作現場程楽しいものはないと言わせている。まるで映画が成功するのはキャストとスタッフのおかげ、失敗したらそれは監督の責任と言っているかのようだ。それは自戒をこめた三谷の本心なのだろうが、でも一番の本音は「みんなと一緒に一つの映画を作るのが最高に楽しい」ということだろう。自分に幸福を与えてくれる人々=同じ映画に携わる人々への三谷の感謝の気持ちが全編にあふれている。


深い人間性を追求するとか、映画の芸術性を極めるとか、そういう自分自身の内的なテーマへのこだわりというものが三谷幸喜にはない。そんな利己的なテーマではきっと彼自身が楽しめないのだ。彼が最高に楽しい時、それは自分の作品で他人を楽しませた時に違いない。だから彼にとっての映画のテーマは「観客を笑わせる」以外にないのだ。


「観客を笑わせる」――そんな利他的なテーマを追求するためには、自分を捨て、他人のために尽くすことが必要だ。そして恐らくそれこそが喜劇(コメディ)を目指す者の王道なのだろう。王たる者は私利私欲を捨て自意識を捨てた時初めて世界に君臨できる(ファンタジーではね)。だからこそ三谷幸喜は日本のコメディ映画界で王者たり得るのだ。


彼にとっては自分を取り巻く全ての人間は皆観客なので、キャストもスタッフも皆楽しませる対象だ。そして彼は自分の作品(普段の言動も、恐らく)を楽しんでくれた人全員に感謝する。


何故ならば、他人を楽しませることで彼自身が楽しんでいるから。


ごく普通に、人は快楽を与えてくれる相手には感謝する。

だから三谷は周りの人全員に感謝している。

もちろん回りの人達全員も、彼に感謝し彼の存在を喜んでいる。

感謝し感謝され、彼らの人生は満ち足りている。



この映画から伝わって来るのは、実はそういう幸福感そのものだ。


まるでユートピアのような映画――それが三谷幸喜の「マジックアワー」である。