「幻影師アイゼンハイム」では悲恋の中心となる公爵令嬢を演じていたジェシカ・ビール(IMDb)。

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スカーレット・ヨハンソンをもうちょっとアメリカンにかつカジュアルにした感じの美女。

「ネクスト」に出演していたのが記憶に新しいけれど、彼女はオーランド・ブルームファンには「エリザベスタウン」では落ち目になった途端に恋人(オーランド)をフった女として2005年から知られている。実は「セルラー」にも出ていて、そっちの方がずっとチャーミングだった。

上にあげた3作での彼女の役柄はどれも「主人公の憧れの女性」。といっても「雲の上の人」とか「高嶺の花」といったイメージではなく、例えば日本映画では寅さんシリーズの「マドンナ」にあたる感じだ。

この「マドンナ」は、言ってみれば「かなり狭い範囲に限定された社会における一番の美女」である。学校とか職場とか、社会的に閉鎖された環境のピラミッドの頂点に、男達によって勝手に祭り上げられた(←これ重要)美女なのだ。だから彼女の意志とは関わりなく、男達が勝手に彼女を巡って争奪戦を繰り広げたりする。

「マドンナ」が例えば「角の煙草屋の看板娘」と違うのは、「看板娘」は見初められて玉の輿に乗る可能性を多分に含む存在――すなわち「選ばれる側」であるのに対し、「マドンナ」にはふさわしい男を自分で選ぶ権利が何となく与えられている――すなわち「選ぶ側」にある事だ。


もちろん「マドンナ」が見初められて玉の輿に乗る場合もある。ただしその場合、彼女が乗る玉の輿はそれまで彼女が所属していた閉鎖社会とは別の社会に属している。「マドンナ」が玉の輿に乗る時、それは彼女の争奪戦を繰り広げていた男達にとっては「鳶に油揚をさらわれた」に等しいが、男達は自分達が彼女にふさわしい器じゃなかったと思って泣く泣く身を引くのである。住む世界が違ってしまった「マドンナ」は、最早手が出せない存在となっているからだ。


この「限定された狭い社会」は、往々にして一人の男の心の内であったりもする。「男はつらいよ」シリーズの寅さんがそうであったように、そういう場合は自分が「マドンナ」にふさわしい男かどうか一人心の中で悶々と葛藤を繰り広げる。若い男ならば自分が「マドンナ」と釣り合う男になるよう努力もするだろう。

「ネクスト」ではニコラス・ケイジ(若くもないか)が彼女の心をとらえるためにはどうしたらいいのか、能力の限りを尽くしてシミュレーションしているのが微笑ましかった(可愛かったっすよ、ホントに)。

「エリザベスタウン」ではオーランドが飛ぶ鳥を落とす勢いだった時に彼女と恋仲になり、仕事に失敗した途端に次の出世頭に乗り換えられた、という状況が暗に仄めかされている。

「セルラー」ではまるでお子チャマみたいだったクリス・エヴァンスが試練を乗り越えて大人になった時、彼女に振り向いて貰えるというシチュエーションだった。

ジェシカ・ビールはそういう女性を演じるとぴったりはまるのである。
映画の中の彼女は男が自分に手の届く最高の女性を手に入れるために自分を磨けば、ちゃんとその努力に報いてくれる女なのだ。女として自分の人生をかける男を選ぶ目はシビアなので、男の努力が足りなければ見限られるかもしれないけれど。

そう、「マドンナ」が選ぶのは自分の結婚相手。
本気で彼女を手に入れたければ、男の方にも自分の一生を賭けるだけの覚悟がなければならない。
寅さんにはその覚悟がないから、永遠に「マドンナ」は「マドンナ」のままなのだ。


さて「アイゼンハイム」ではどうだろうか(この先ストーリーについて言及します。さしたるネタバレではないと思いますが、気になる方御注意下さい)。



彼女の演じたソフィーは公爵家の令嬢だから、子ども同士という狭く限定された社会においても彼女がピラミッドの頂点だったのは間違いない。子ども時代のアイゼンハイムが、身分からいえば口をきくことさえできないようなソフィーと仲良しになれるというのは、まずソフィーの方が彼を選んだからなのだ。

それはアイゼンハイムが才能豊かな少年で、その才能を伸ばすための努力も怠らなかったからに他ならない。そして彼はその才能を惜しげもなく彼女のためだけに使っていた。

この時点で二人はもうお互いにお互いを一生の相手として選んでいたのである。

ところがソフィーが子ども社会から大人の社会へと無理矢理連れ去られてしまう。身分違いのアイゼンハイムとは文字通りに違う世界――貴族達の上流社会――が彼女の住む世界なのだ。

普通ならここであきらめる。もう少し大人ならば駆け落ちという手もあるが、それはソフィーにとっては身分を捨ててアイゼンハイムの世界に暮らすことになる……それは「マドンナ」にふさわしい行為ではない。

ソフィーはアイゼンハイムにとっては「マドンナ」でなくてはならないのだ。
だから彼女の住む世界に近づくためにますます努力をし、自分の才能に磨きをかけ、遂に身分の垣根を越えて上流社会へと近づく立場へと上り詰める。

その立場で再会したソフィーは、上流社会の中でもやはり頂点を極める位置にいる。どこまでも「マドンナ」であり続ける女性である。選ぶ権利は常に彼女のものだ。そして彼女が最終的に選んだのは、やはりアイゼンハイムだった……。



望めば皇太子妃にもなれる女性の愛を、身分の低い出自の男が裸一貫から叩き上げた己の実力だけで勝ち取る――それは多くの男性の夢見る一つの幻想には違いない。「マドンナ」に選ばれた男は、ある意味それだけでその社会の他の男達全ての頂点に立てるのだ。

「幻影師アイゼンハイム」の紡ぎ出すイリュージョンでは「マドンナ」こそが全てであり、「マドンナ」を失えば世界は輝きを失ってしまう。世界を引き替えにする程の強い愛でなければ、「マドンナ」の愛は得られない。そこには善も悪もない。ただ愛だけが全て。まさに幻想の世界なのである。