なんとなくチャンネルを変えていたら、また偶然に「痛みが美に変わる時~画家・松井冬子 」が始まってしまいました。余程縁があるのでしょうか。


「傷を負った人にしかなれない美しさがある」みたいな事を番組の中で社会学者の上野千鶴子さんが言ってました(正確な引用ではありません)。バロック真珠は歪んだ部分こそが美しいのだと。バロック真珠は傷をつけられた部分を保護するために真珠層がその部分だけ厚く幾重にも覆われることによってその歪みが生じるわけですが、松井さんの作品の美しさはそれに似ていると。ただし傷つけられた人全てが美しくなるわけではないとも。


松井さんを見て、この下に写真を載せているシャーリーズ・セロンに似ていると思ったのはその顔立ちの美しさだけではなく、シャーリーズ自身が深い心の傷を乗り越えた人だからかもしれません。葛藤を乗り越えた人の美しさには深みがあります。その乗り越えることが、バロック真珠では真珠層の厚みにあたるのでしょうか。


人間の心は真珠ではないので、傷ついて血を流している心というのは、その時点で時が止まってしまい、いつまでも傷口から血を流し続けているものなのです。でも人間生きていかなければならないから、その心の傷はそれとして置き去りにしたまま成長(変化)もするわけですよ。


ただ、その自分の感じた心の痛みを誰かにぶつけたいという思いは誰にでも兆すと思います。


自分はこんなに傷ついているんだ、こんなに痛みを感じているんだ、あんたたち(自分の周囲にいる不特定多数の人々)は気づいてないけどこんなに苦しんでるんだ! わかってよ!!


これが心の叫びとなって、自分自身を責め苛むわけです。


傷つけた相手が特定の誰かなら直接その相手に言えばいいわけですが、しかし言えないという場合の方が圧倒的に多い。そもそも傷つけられたと言う時点で、自分を傷つけた相手に対して「かなわない」といったイメージができあがってしまいますから。


そしてまた、自分を傷つけた相手を自分が愛しているというどうしようもない状況も多々あるわけで……恋愛関係だけでなく、肉親の情愛や友情も含まれます。


こういう相手には自分の苦しみを直接訴えるなんてことはできませんから、勢い心の叫びを聞いて欲しいのは不特定多数ということになるわけです。いわば他人。他人なんだから自分の悲惨な境遇に気づいてくれるわけもないのに、それがわかっていたとしても、誰にも気づいて貰えないという事が悔しくて情けなくて、怒りや悲しさといった負の感情が身の内に高まっていくんですよね。


本当に気づいて欲しい相手は、自分を直接傷つけた相手ただ一人のはずなんですが。しかしそれだけは口が裂けても言えなかったりする。もしくは言ったところでこちらの意図が全く理解できない相手というのも世の中には結構な割合で存在するわけで。


こうして事態は自縄自縛に陥ります。


そういった感情の内圧が高まった時にガス抜きとして行われるのが「自傷行為」ですね。心の傷を現実のものとして他人に分かるようにするための示威行為。自傷はだから自殺目的とは違うんです。そこには痛みを与えることで自分を罰したいという思いも潜んでいるかもしれません。


そういう意味で「自傷行為」というのは、一種の自己表現の手段なのかもしれません。感情が言葉にならない時、或いは他の手段で表現する手段を思いつかない時にとる、自分の体を使ったアートですね。それが芸術として世間に受け入れられるかどうかはまた別問題として。


上野さんが松井さんの絵画を称して「自傷系アート」と言っていたのですが、リストカットをする代わりに彼女には絵を描くという手段があったということですね。彼女の絵って、傷口をそのままみるような感じなんです。リストカットは傷口からあふれ腕を伝わって流れる赤い血が美しいので、やはりヴィジュアルが好きな人が多く執る手段ではないかと思われます。


同じアートでも、音楽って実は音そのものが破壊的ですからね。音は振動で、振動は大きくなれば物を破壊する威力を得る。音を発するということは声であれ楽器であれ、一種破壊兵器の発動なわけですよ。表現としては非常に能動的で直接的で、言葉にならなくても思いはそのまま発散できる。あまり、溜め込むという事はないんじゃないかという気がします。


しかし音楽は能動的すぎて、音が大きくなりすぎれば騒音としか思われず返って相手に聞いて貰えないという危険性と背中合わせなんですよね。そうでなくても、好みでない音楽というのはほんの数秒で判断されちゃいますから、全然聞いて貰えないという恐れは常にあります。


簡単に「自己表現」とは言いますが、表現ってものは、他人に認めて貰ってナンボです。


最も初歩的な自己表現であるお喋りだって、誰か聞いてくれる人がいて初めて成立するものです。

独り言は自己表現ではありません。自分に対して言い聞かせるためなら、単なる確認の手段でしょう。

たまに街中で一人で口角泡を飛ばして喋っているような人がいますが、彼ら彼女らは独り言を言っているわけではありません。常に誰かに何かを真剣に訴えかけています。その「誰か」は周りの人の目には映ってませんが、彼ら彼女らの目にはしっかり見えているのだと思います。その自分にしか見えない相手に向かって彼ら彼女らは心ゆくまで話をし、自己表現を行っているのでしょう。


お喋りというのは主として家族や友人相手に行うものですから、多少内容がなくても全然おもしろくなくても、愛や友情があれば聞いて貰えます。音楽やその他の「芸術」作品も、身内ならば大抵は受け入れてくれるものです。


しかし、第三者――赤の他人に自分の作品を受け入れて貰おうと思ったら、それなりの技術を磨かなければなりません。


自己表現を家族以外に受け入れて貰うには

①友達を作る

②己の技術を磨く

どちらか或いは両方のための努力が必要です。

友達以外の、不特定多数の人を相手に自己表現したければ、己を磨く以外に方法はありません。まあ、宣伝というのもありますけれど、宣伝そのものに技術が必要ですからね。


何故技術を磨くことが必要かというと、人間出来映えの良いもの=美しい物なら喜んで鑑賞しようという気になるからです。



自分の心にぽっかり開いた傷を誰かに見せたいと思ったら、傷口というのは本来恐ろしくて醜悪なものですから、その醜さを超越させ昇華させるだけの美が必要です。その途方もない美の力で観衆を圧倒しぐうの音も出ない所まで追い込んでおいて、初めて醜い部分をさらけ出す事ができる……それを絵画として見せてくれたのが松井冬子であり、そしてたぶんサルバドール・ダリです。他にもいるでしょうが(番組の中で松井さんが見ていた絵の作者とか)、私の知る限りではこの二人が最高峰なので。


ダリや他の有名な画家はほとんどが男性ですから、女性として女性特有の傷口をこのような形で世に出してくれた松井冬子さんのような方は稀少だと思います。彼女が初めてではないでしょうが、恐らくそのほとんどは男性中心の画壇にあって黙殺されてきたでしょうから。日本の少女マンガという固有の世界にはあったのではないかと思われますが、画力においてここまで他を凌駕する存在は初めてかもしれません。



醜い傷口を他人に見せるための究極の美。

それが上野の言ったバロック真珠の美しさの意味でしょう。



世の中には醜い傷口をそのまま他人に見せる人もいます。

CSIが人気ドラマになったように、人間には他人の傷口を見てみたいという好奇心もありますから、それはそれで成立します。

でもその傷口もそれを見せる人も醜いままで決して美しくはならない。

現実はテレビドラマではないので、醜い傷口をそのままいつまでもさらし続ける人は、いずれ周囲の人を辟易させます。最終的には友人や家族まで離れてしまい……その結果自分にしか見えない相手に話し続けることになるのでしょうか?



松井は安易に喋る道は選ばなかった。

代わりに自分の全てをかけて絵を描くことを選んだ。

彼女の受けた傷は深く、到底言葉で語り尽くすこと等できないのでしょう。


絵の中でさえ、彼女は言葉を発しません。

表情さえも変えません。

女性モデルの顔はどれも端正で美しく、表情から激しい感情の起伏を読み取ることはできません。

その代わり体にはぱっくりと大きな傷口が開いています。それは体にあいた穴。そこから人体を形成するありとあらゆるパーツがこぼれ落ちています。胎児さえも含めて。人間性を喪失する程の、悲惨な体験があったことがそこには語られているのです。顔という外界に向けた部分だけがかろうじて人間という面目を保っているだけで、彼女の内部はぼろぼろに崩れ果てている……もはや新しい血が流れる事のない程、ずっとずっと昔から。


その美しい絵画に描かれているのは、呪詛と怨嗟です。それは男性に穴を穿たれる存在としての女性全てが心の中に抱えている怨念がはっきりと表れた形なのかもしれません。


半分崩壊した心を抱え、それでも彼女が生きながらえてきたのは絵を描くという自己表現の手段があったからなのでしょう。絵を描いて、その壊れた心を世間の人々につきつけることこそ、彼女の人生の目的だった……。たくさんの人に絵を見て貰うことが大切なのです。


そのためにはより良い作品を製作することが必要です。

取材を受けながら製作していた新作の完成が間近に迫ったある日、彼女はカメラが家に入ることを禁止しました。


そのシーンを見て、私は「夕鶴」のつうを思い出しました。男が助けた鶴が美しい女に変化して男の妻になり、生活の助けにと夜な夜な機を織るけれども、その姿を決して見てはならぬと夫に約束させるというあの話です。約束を破って夫が機織り部屋をのぞき見ると、女房の姿はなくて鶴が自分の羽根を抜いて機を織っていたというあれですね。


機織りも絵を描くのも、芸術作品の制作に打ち込むと言う意味では同じです。

松井が絵を描く姿を見られたくないというのは、もちろん集中力を殺がれたくないというのもあるでしょうが、つう同様自分自身の本来の姿に立ち戻り、身を削るようにして制作する所は見られたくないという思いからではないでしょうか。


「絵を描きながら何を考えているの」

と聞かれて

「制作の時は主に技法の事なんかを考えています」

と言うようなことを松井は答えていましたが、上野千鶴子が喝破したように恐らく潜在意識では自分の心が壊れた瞬間の追体験を何度となく繰り返していると思うのです。芸術における感情の発露とはそうしたものです。そんなプライベートなシーンを、とてもじゃないけど公共の電波なんかにのせるわけにはいかない。


特に女性の場合は、自分自身が傷口をさらけだしているようなあさましい姿を人前にさらしたくないからこそ、作品で全てを語ろうとしているわけですよ。美しく仕上げられた作品を見せるのはいいけれど、自分の抱えた傷の醜さを現実に見られたら最後、もう自分はそこにはいられないと思い詰める場合もあるでしょう。鶴に戻って機を織っていた姿を見られたつうが、よひょうを捨てて空に帰って行ったように。



「夕鶴」ではつうは元々は罠にかかって苦しみ傷ついていた鶴でした。

その鶴は優しいよひょうによって救われて、人間に化身して彼と結婚し幸せな日々を過ごします。

松井はよひょうに出会えなかった鶴。傷つけられるだけ傷つけられたその血まみれの羽根で機を織り続けるつうなのかもしれません。