1分だけ行くなら天国? 地獄? ブログネタ:1分だけ行くなら天国? 地獄? 参加中
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どうして天国のイメージを語る時は「天使」でキリスト教的イメージなのに、地獄のイメージを語る時は「閻魔大王」だの「鬼」だので仏教系的イメージなんでしょう? 議論するならまずそこに疑問を感じるべきだと思うのですが? 

鬼がいる地獄に対しては「極楽」を思い浮かべるのが日本語のあり方じゃないでしょうかね。
「天使」がいる天国に対しては「悪魔」のいる地獄がふさわしいでしょうし。

ちなみに私が1分でもいいから体験したいのはどっちでもなくて「涅槃」。解脱しないで涅槃にいけるなら、是非お願いしたいです。戻ってきた時に何を感じるのかを考えると恐いですけどね。


ところで人様のブログを読んでいて気がついたのは、死後「自分は間違いなく地獄へ行く」と思っている人は天国を見たがり、「たぶん天国へいけるんじゃないかな?」と感じている人は地獄を見たがる傾向が強いことです。

みなさん、死後の世界を漠然と信じてるんですね。

これが正面切って「あなたは死後の世界を信じますか?」と詰問したのなら「まさか、そんな馬鹿な事」という返事がかなりの確率で返ってくると思うんですが、「死んだらどっち行きたい?」と聞くと天国や地獄の存在の有無についての議論はすっとばして自分の死生観、というか死後の世界に対して感じている事をぽろっと話しちゃうわけですよ。

それがまた神道も仏教もキリスト教も民俗的な漠然とした信仰も都市伝説も渾然一体となってる人が多い多い。んでまたこういう人に限って「私は無宗教です」なんて言い張ったりするわけです。本当はいろんなモノ一杯信じてるくせにね。

んで、そういう人がちょっと宗教色の濃い映画なんかを見ると、その対象である個別の宗教宗派、さらには個人的な信念や崇拝であるものまですっとばして「宗教は恐いねえ」となる。

これ、オウム真理教の最大の罪ですよね。

日本人に「(信仰)宗教=恐いもの」という意識を植え付けちゃった。

本来宗教というものは救いであるべきものなのに、日本人はその救いを失ってしまったんです。

別なブログネタに「誰でもよかったで殺されたくない」というのがありますが、宗教というのはこの「誰でもよかった」で殺されてしまった人の、その遺族の心を救うためにあるべきものだったはずです。

「全ては神のご計画の内だ」とか、「その日死ぬべき運命だったのだ」とか、或いは「今は天国でやすらかだから悲しまないで」や「神様の元で幸せになったのよ」といった今では決まりきった文句でも、最初にその言葉が発された時は愛しい人を亡くして悲嘆にくれる親族の心を少しでも軽くしてあげようという優しい心遣いから生まれたはずです。

自分ではどうしようもできなかった、運命のいたずらとしかいえないような不慮の死は、心の準備がないだけに残された人々の苦悩ははかりしれません。そういう苦しみに悩む人々を何とかしてあげたい……それが宗教が生まれるきっかけになるのです。それを神にすがってやりすごすのか、自分の心を強くすることで乗り越えるのか、それは各宗教によって違う発展を遂げていますが。

何故苦しみをやわらげなければいけないのか?
苦しむ人間の心はそのはけ口を欲しがり、それは容易に復讐へと発展するからです。

「誰でもよかった」で殺された被害者の遺族達は今、マスコミで気軽に加害者への復讐心を口にしています。その気持ちは痛い程わかります。しかし、だからといってそれを軽々しく口にするのは、人間が営々と積み重ねてきた精神的文化を後退させることになるんですよね。

殺人に報いるのに殺人で応酬していたら、人類は程なく絶滅します。
血の復讐を一族に課した人達が互いの係累を最後の一人になるまで殺し、結局互いの家系を絶やしてしまう……そういう事件が歴史の中で実際にあって、それで各国で立法上復讐を制限するような発展を遂げてきたわけです。

それでも相手の血を望む心をなだめすかし、穏やかなものにするために宗教が機能してきたという側面を日本人は忘れてしまった(或いはそれを含めて宗教をうさん臭いものだと思い込むようになった)。

それが現在のテレビカメラの前での「できるものなら殺してやりたい」発言につながるわけです。遺族の方々が実際に殺人に手を染めることはまずないでしょうから、せめてその思いを吐露したいという気持ちもわからないではありませんが、しかしそれはマスコミの前で言うべきではない。メディアの影響力は漠然としているけれど、それだけに大きいですから、遺族の方々の気持ちを離れて安易な復讐心だけが闊歩することにつながりかねないからです。

もちろん、そういう加害者を恨むような発言を一切なさらない方々もたくさんいらっしゃいます。ところがそういう方の意見は何故か評判にならない。扇情的じゃないのでマスコミが積極的に取りあげていないのかもしれません。

「復讐の連鎖を断ち切る」というのは言葉では簡単な事ですが、復讐心に満ちた心のケアからまず始めなくてはなりません。それは大変難しい。復讐心を煽る方がずっと簡単なんです。

かつて宗教が果たしていたその役割を、今は何が担うのでしょうか?

「悪いことをしたら地獄に落ちる」「良いことをしたら極楽に行ける」という漠然とした認識も、今や犯罪の抑止力としての機能を失いつつあります。

もしも本当に1分だけでもいいから「天国」や「地獄」の体験を現実のものとして持てるのなら、上記の認識の説得力が格段に上昇するでしょう。

でもその場合は、死後「地獄に行く」と思っている人に「地獄」を見てもらわなくっちゃいけませんね。それで幾らかでも改心できるのなら、めっけもんと言うものです。