ロブ・ゾンビ版の「ハロウィン」のシリーズ化が決まったそうで、「H2」は次作の仮タイトル。来年の3月から撮影に入り、10月には劇場公開をめざすとか(こちら )。
もーえーわ、というの私の正直な感想。
ホラーファンは忠実なものだけど、私の操(←なんだそれ)はジョン・カーペンターに捧げられているのであって、ロブ・ゾンビの作品なんかどうでもいいんだもんね。
このあとちょっと「ハロウィン」に関するネタバレ。
カーペンター版とロブ・ゾンビ版ではブギーマンことマイケル・マイヤーズの描き方に決定的な違いがある。
カーペンターが描き出したマイケルは、人間の姿を借りてはいるものの、人間ではない何かなんだよね。最近流行の「人の心にひそむ闇」なんて規模の小さいものではなく、闇そのもの。暗黒であり虚無であり、人の力の及ばない存在で、彼のその本質に気づいているのがこの世でドクター・ルーミスただ一人という設定だから、ブギーマンとドクター・ルーミスの戦いというのは実は人の世で人間の姿を借りて行われている悪魔対神の決戦の一コマなのではないか……と、そこまで観客の想像をふくらませてくれる偉大なキャラクターだったんだわ。
カーペンターが監督した作品はどれも観客に想像の余地を充分に与えている。観客はそれによっておのれの想像をふくらませ、それによりはかりしれない程の恐怖を勝手に味わえるわけですよ。恐怖の対象というのは個人によって違うものだから、各自が自分で最も恐い状況を思い浮かべられる映画こそが最高のホラーなんだと思います。ま、想像力が無駄に豊かな私みたいな人間にとってはね。
ドナルド・プレザンスのドクター・ルーミスには、神の使徒にふさわしい日常の欲望を離れた威厳と風格がありましたよ。なにより説得力があった。この実直で正直で理性的に見えるドクターがここまで恐れるなら、その相手は本物の悪魔なんだろうと、見ている方は思います。
ところがロブ・ゾンビ版だとドクター・ルーミス、マルコム・マクダウェルですからね。あたしゃ映画見てて彼がスクリーンに登場した時、どこのホームレスのおっさんかと思いましたよ。ホームレスにしては小綺麗だったけれど、ドクター・ルーミスにはまず見えませんでした。
マルコム・マクダウェル、好きですよ。でも彼はどちらかというと主人公側に敵対する側にいた方が真価を発揮する役者じゃないかと思うんですが。通り一遍の悪役じゃなくて、複雑な心情や背景の元に己の信念に基づいて行動する狂信的だけど本物の狂信者になるには理性が邪魔をするというタイプ。あら、マイケル・マイヤーズを「主人公」としたら、ドクター・ルーミスは彼に敵対する役ですから、そのままでぴったりそのまま当てはまってますね――そうか、キャスティングとしては間違ってはいないのか……。
ということは「ロブ・ゾンビ」版ではあからさまにマイケル・マイヤーズが主人公なんですね。
でもそれじゃホラー映画にならないわ~。
殺人鬼が主人公で、その主人公が自分の思い通りに楽しく人を殺してる映画でしょ? それだったら近いのはスナッフフィルム(実際の殺人現場を撮影した映画)であって、ホラーではない。
ホラーというのは「恐怖」を味わうんだからさ、「殺人鬼に殺されるかもしれない」という恐怖を心底味わうためには襲われる側が主人公じゃないと感情移入できないじゃない。
殺す側は楽しんでるんだから、それに感情移入したって恐がれないでしょ?
殺す側に感情移入して楽しむタイプの作品が「ホラー」と銘打っている場合は多いけれど、ロブ・ゾンビ版「ハロウィン」は完全にそれ。ホラーファンとしてはホラーの傑作である「ハロウィン」をただの殺人淫楽映画に堕落させられたようなもので、大変腹立たしいわけです。
殺人淫楽の犯人を捕まえるのは、テレビシリーズでは「クリミナル・マインド」なんかがやってることなんだけど、そこで見せているドラマの内容は見方を変えれば、殺す側にもそれなりの理由があるんだよ、殺人鬼だって同じ人間なんだよ、という事だったりします。
罪を憎んで人を憎まずの思想ならそれもまた正しいんだけど。
だけどホラー映画で殺人鬼を心理分析で人間レベルに落とされちゃあ、見ている側は恐がれない。人の心の闇など恐くない(気持ち悪いけど)。所詮は同じ人だもの。人に見えるものが実は人じゃないからホラーは恐いんだよ(特にカーペンター映画は)。
もっとも世の中には「気持ちが悪い」という感覚も「恐い」に含まれる人がいるから、そういう人にとっては「気持ち悪い」映画や映像も充分「ホラー」なんだとは思います。
さて、話は「ハロウィン」に戻って。
カーペンター版のドクター・ルーミスがブギーマンに神に変わって鉄槌を下す(必ずしも成功しないけれど)役割を担っているのに対し、ロブ・ゾンビ版のドクター・ルーミスは子ども時代のマイケル・マイヤーズからなんとか身のある話を聞き出そうと奮闘することで、マイケルが不幸な子ども時代を過ごした人物であると観客に印象づけるのが仕事です。最終的に「こいつ人間じゃねえ~!」という結論に達するのはカーペンター版と同じなんですが、費やす時間は「不幸な子ども、マイケル」のあぶり出しの方がよっぽど長い。
あたかも観客にマイケルに同情する時間を与えようとするかのようです。
世の中には憎むべき殺人鬼でありながら圧倒的に魅力的な人物を描いた映画もありますよ。レクター博士、別名ハンニバルのシリーズとかね。でも「ハロウィン」のマイケルに同情してどうするんですか? 彼の殺人を大目に見ろと?
実際、そういうことなんだと思います。
事実上の主人公がマイケル・マイヤーズである「ハロウィン」では、マイケルすなわち監督のロブ・ゾンビの投影でしょう。映画の中で描かれるマイケルの荒んだ子ども時代と母親への偏愛は彼自身の心象風景なんじゃないかと思えてなりません。大体自分の妻を映画の中ではマイケルの母親役で登場させてますしね。かなりのマザコンぶりが窺い知れます。
そうなるとマイケルの殺人の動機っていうのがカーペンター版と微妙に変わって観客に伝わって来るんですよね。
カーペンター版ではマイケルが実の姉を殺したことで彼の非人間性を際だたせていたのが、なまじ心理分析なんか見せたロブ・ゾンビ版ではマイケルが母親の愛を独占したいために彼女の愛人と実の姉を殺害した究極のマザコン坊やに見えてしまうんですわ。
で、ロブ・ゾンビはそんなマイケル=自分自身の投影に、観客に同情してほしいんです。だって僕(マイケル)、不幸な子ども時代をおくったんだから仕方ないんだもん、って。
甘ったれんな!
こういうの、ばっちり言ってくれるのは同じテレビシリーズでも「CSI」の方ですね。グリッソムもマックもホレイショも、口を揃えて断言することでしょう。だから私は「CSI」が好きなんだけど。「クリミナル・マインド」だと、そこまでキレがよくないのよね。
ロブ・ゾンビ版「ハロウィン」ではそれはドクター・ルーミスの役目だったはずなのに、肝心な時にこのドクターは理性を外れて宗教にはしっちゃったもんだから、今度は逆にマイケルに理性的にそう言い渡すことができない。ダメダメな存在ですが、何しろ監督の主眼がマイケルの方にあるんだから仕方がない。この作品ではマイケルははっきりとは断罪されないまま終わるんですよ。もう一度言いたいわ、
甘ったれんな!
殺すのを楽しむ側に感情移入して見るのは観客の勝手だけど、監督がそうやって開き直っちゃったらダメでしょうが! 自分を突っ放して描かない限り、すぐれたフィクションにはならないでしょ!
映画の中とはいえ、自分が好きなだけ人を殺しておいて、それは自分が不幸な子ども時代をおくったせいで本当は自分が悪いんじゃないから同情してほしいだなんて、そんな身勝手な言い草、誰が聞くかい!
結局一番不愉快なのは、その甘ったれた身勝手な言い分なんですよね。ガキじゃあるまいし、男なら自分のやった事の責任は男らしく自分でとれ!!
なんというか、「SAW2」以降、こういう殺人鬼が自分の罪を他人のせいにしてのうのうとしているような映画、増えました。そのノリで「ハロウィン」のような古典的な傑作までリメイクされるのは、時代の流れとはいえ、実に悔しいですわ。
殺人淫楽的なものを心に持つ人がその幻想を映画として昇華させること自体は別に構わないんですよ。それによってその人自身や、映画を見た同様の趣味の人が現実に殺人を犯すことなく日常を暮らせるなら万々歳です。
でも、殺人の実行犯が無闇に同情を買おうとしたり、殺人教唆したものが罪の意識を免れたりするような映画はね、卑怯者の映画です。そんなのが流行る世の中なのかと思ったら、カーペンターの「ハロウィン」で恐がっていた時代がいい時代にさえ思えてきますよ。